2000年経て謎が解けた?!出雲大社の御神体はどんな姿形?蛇や石という正体の秘密にせまる!

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出雲大社の神様は今日、「縁結びの神様」として広く知られる「大国さま」と認知されているものの、我々が知る大国さまとは肩から袋を下げた画像(絵画)で知る姿。

大国主大神=大国さん=大黒天?

ではその大国さまの御神体とはどのような姿形をしているのか?‥‥などという疑問が生じる。




出雲大社の御神体は誰も見たことがない

実際、出雲大社でも御神体に関する質問を受けることが多いらしく、決まってこのように答えているのだとか。

『誰も見たことがないので何とも答えられない。何人(なんびと)も絶対に見れないと定められているので、今の今まで誰も知らない。』

‥‥と。

それもそのはず、この傍証として、過去の出雲大社のトップ、つまり出雲国造(宮司)が自社に伝わる史料をもとに御神体を調査し、その調査結果を書籍化したことがある。

然るに出雲大社の御神体とは、見るどころか代々のプレジデント(出雲大社の最高権力者)ですら調べないと分からないほどの代物なのである。

本殿内部は代々の出雲国造(宮司)しか入れない

ちなみに出雲大社の本殿は神職の中でも出雲国造しか立ち入ることが許されず、それゆえ、本殿の内部を知るものは宮司のみ。

天皇陛下ですら立ち入りができないことから、極限まで外界との接点を少なくしているとすら思える。

ただ、出雲大社は悠久の歴史を歩んできた古社であることから‥‥、いるでんす。こういう輩が。

秘密にしているものほど見てみたい!

つまり‥‥‥

過去に御神体を見た者がいた!!




御神体は大きなアワビで大蛇?

松江藩・松平氏初代の直政から6代宗衍までの藩主、その周辺の人物たちの事跡を記した出雲地方に伝存する実録「雲陽秘事記(うんようひじき)」によると、藩主・松平直政が自らが統治する藩領内の出雲大社へ社参した時の奇怪な出来事を記す。

どうやら直政は藩主になったので、その暁にまずは土地の神に奉告(挨拶)すべく、出雲大社へ訪れた‥‥が!

礼拝後、どうしても御神体が見たくなって宮司に見たいと告げた。

ところが出雲大社には古来より、何人たりとも御神体は見れないというキツい仕来り(戒め)があるので、あっさり断れられる。

聞き分けの悪い直政は、配下の手の者を差し向けて本殿の扉をこじ開けさせ、必死の神職たちの制止をものともせず、意気軒昂として本殿前の階段を昇り、本殿の中へ姿を消していった‥。

‥‥そこで直政が見た光景とは?

後談としてこぅ語ったそうな。

『最初は大きな九穴の鮑(あわび)じゃった。

ところがしばらくすると十尋(とひろ/一尋は成人男性が両手を広げた長さ/約15メートル)もある大蛇に変化しよったので、ワシは思わず恐れ慄き、そのまま本殿を出てしまった‥‥』

と。‥デカっ!!そんなアワビおったら‥当分晩飯代うく うきゃ

とりわけ、この話には「巨大な蛇が9匹出てきて、それがヤマタノオロチになった‥」という話もある。

なんにせよ大蛇を見た直政は腰を抜かして本殿から這いずり出てきたとのことらしいが、出雲大社の本殿は当時と現代とではサイズがほぼ同一とされているので、だとすれば一辺が11メートル。

15メートルの鮑や大蛇というのは、御祭神が見せた幻影と言わさざるを得ず、もしそれが事実であるならば、それだけ御祭神がもつ霊力の広大無辺さを示す指標ともなる。

【ピヨ🐣コメント】

「九穴の鮑(くけつのアワビ)」とは、単純に「九つの穴が開いたアワビ」のこと。

昔はこのアワビを食べた者は不老長寿の霊力を帯びたといい、これにちなんだエピソードがいくつか伝存する。

例えば、茨城県常陸太田市に鎮座する「西金砂神社(にしかなさ)」と「東金砂神社(ひがしかなさ)」では、奉斎する御祭神が巨大アワビに乗って海の向こう側からやってきたという途方もない逸話がある。

驚くことにこの御祭神!奇しくも出雲大社にて奉斎される大国主大神とその国造りを助けた神「スクナビコナ」だというから驚き!

一説には大国主大神が国譲りした後、スクナビコナはその後を追って幽界(常世の国)へ行ったという説もあり、これはその常世の国から還ってきたという発想になる。

また、和歌山県熊野にある那智の滝(なちのたき)には、かつて龍神が授けたとされる九穴(9つの穴)のアワビが奉安されているとかで、その身は「不老不死の薬」として重宝されたという伝承もある。




御神体は水神?蛇神??龍???

出雲大社では古くから主祭神の大国主大神は、神在祭の頃に稲佐の浜に漂着する龍蛇に乗ってやってきたとする信仰もある。(もしくは大国主大神そのものが龍蛇だったとも)

出雲における「龍蛇」とは蛇神でもあり、龍神でもあるが、その実態は「セグロウミヘビ」とされる。

出雲地方では毎年、神在祭の頃になると浜辺に打ち上げられるこの海蛇を神の使いとして崇め、神々はこの海蛇に乗って(もしくは先導されて)出雲大社へ縁結びの会議をしに訪れると言う。

また、出雲大社には古くから「龍蛇神講(りゅうじゃじんこう)」という龍蛇を神としてを崇める信仰団体があり、例年、神迎祭の翌日の旧暦10月11日の午前11時頃から境内・神楽殿にて龍蛇神講大祭が営まれる。

実は大国主大神の周りには蛇神が多い?

奇しくも大国主大神の周りには蛇神に由来をもつ神が多い。

例えば大国主大神の別名で知られ、奈良県三輪山を御神体とする「大物主神(おおおものぬしのかみ)」の正体も蛇神と言われる。

大物主神は本当に蛇神?

日本書紀によると崇神天皇の叔母にあたる倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は大物主神に輿入れした。

しかし大物主神は夜にしか姿を見せなかったため、夫婦となっても姫は夫の姿を知らないままでいた。

ある日、姫は神に姿を見せてくれるように託け(ことづけ)すると、大物主神はこっそりと姫の櫛笥(櫛箱)に入って姫が箱を開けるのを待った。

明くる朝、姫はその櫛箱を開けると小さいながらも容姿端麗な蛇が入っていたが‥、姫は思わず”規制”されるほどの勢いにて”奇声”をあげると、蛇は自らを恥じて三輪山へ登り帰ってしまったのだった。

姫はその後、自らの過ちを猛省するあまり箸で陰部💋を突いて自害したとある。アハぁ〜ん💋イヤぁ〜ん❤️

建御名方神の正体は龍蛇?

また、大国主大神の息子神の一人である「建御名方神(たけみなかたのかみ)」は現今、諏訪大社の主祭神として広く知られるも、その実体は龍蛇神という話は、もっぱら有名な話。

もう一人の息子神である事代主神も日本書紀の少彦名命神話の中で八尋熊鰐(やひろわに)」に変化して妻のもとへ通ったと、これまた素敵に記す。

ここでの「八尋」とは「長大」を意味し、然るに蛇を意味する。(日本書紀では「龍」と記す)




ヤマタノオロチは龍蛇!

それと忘れてならないのはスサノオ伝説に登場するヤマタノオロチではなかろぅ‥‥クぁ!

ヤマタノオロチとは8つ頭と8本の尾を具有した龍のような大蛇の姿態の怪物であり、伝承によると高志国(越国/こしのくに/現在の福井県〜新潟県あたり)から毎年、出雲にやってきて実にピチピチとした村の娘っ子をサラってきて食べるという。

この得体の知れない怪物をスサノオは出雲で仕留めることに成功する。

出雲大社の御神体は「剣」?

日本書紀第5巻によれば、出雲国造の祖先であり、当時の出雲大社の宮司であった出雲振根(いずものふるね)はある時、筑紫の国(九州)へ所用で出かけていたそうな。

そんな振根が留守のみぎり、崇神天皇の使者が下向されこう告げたそうな。

『武夷鳥(たけひなとり)、あるいは天夷鳥(あめのひなどり)が天から持って来た神宝が出雲大神(いずもおおみかみ)の宮に収蔵してあるのそうだが、それを見たい』

と。

これを聞き快く承諾した弟の飯入根(いいいりね)。

しかしこの使者は見るだけではなく、天皇が神宝を所望されていることも告げる。

すると飯入根は、これも兄にだまって快諾し、挙げ句、弟の甘美韓日狭(うましからひさ)と息子の鸕濡渟(うかずくぬ)を護送につける形で天皇へ神宝を献上したのだった。

程なくして帰着した振根はこの話を耳にしたとたん怒り狂い、弟を殺してしまう。

その後、弟を殺した罪の重さを知った振根は、このとき殺意があったことを伏せるために本物の刀を木刀にすり替えて修練中の不幸な事故を装った。

然るに弟に木刀を握らせたことにしたのだった。

これ以降、しばらくの間、出雲臣はしばらく出雲大神を祭らなかったそうな。

なお、この話には「剣」が素敵に登場したが、荒神谷遺跡(出雲市斐川町神庭)からは大量の剣が350余本も出土した実績もあり、一説にはこの剣の数も当時の出雲内の神社と同数であったとされ、これすなわち御神体として奉斎していた可能性があることが指摘されている。

また、上記のヤマタノオロチ伝承に登場するスサノオはオロチを仕留めた後、その体内から後に三種の神器となる草薙の神剣を発見した。

この剣はその後、素戔嗚尊と天照大神の誓約(うけい)に用いられ、この時にスサノオの剣から「宗像三女神」が生まれたとされる

その後、宗像三女神は天照大神の神勅によって筑紫の国(九州)へ降り、当地にて奉斎されることになる。(宗像大社の誕生)

それと「振根」の名前。剣を”振”るったことから由来がきているという見解もあるらしい。

実は出雲国は銅剣と銅鐸が日本でもっとも多く出土している場所でもあり、これらの事実をひっくるめて考察すると現在の出雲大社の神宝、すなわち御神体とは「剣」とされる可能性も軽視できない。




出雲大社の御神体は伊勢神宮と同じ「鏡」?

実は上記の話には続きがあり、出雲臣がしばらく出雲大神を祀らなかったのに祀るようになったキッカケがあります。

なんでも当時の丹波国氷上郡(現在の兵庫県丹波市氷上町あたり)で暮らす氷香戸辺(ひかとべ)という女性が、皇太子(天皇の息子)に自らの幼子が歌っている歌を伝え聞かせたとあり、これを耳にした天皇は驚愕し、急ぎ鏡を作らせたとある。

その歌の内容‥‥

『玉菨鎮石(たまものしづし) 出雲人(いづもひとの)祭(いのりまつ)る 真種(またね)の甘美鏡(うましかがみ) 押し羽振る 甘美御神(うましみかみ)、底宝(そこたから)御宝主(みたからぬし) 山河(やまがは)の水泳(みくく)る御魂(みたま) 静挂(しづか)かる甘美御神、底宝御宝主 (水草の中に沈んでいる玉のような石。
出雲の人の祈り祭る本物の見事な鏡。力強く活力を振るう立派な御神の鏡。水底の玉。宝の主。山河の水の洗う御魂。沈んで掛かっている立派な御神の鏡。水底の宝。宝の玉)』   
訳:宇治谷孟

ここで登場する「甘美鏡(うましかがみ)」がいわゆる鏡のこと。

天皇はこの鏡を神もしくは神霊の依り代として、これは祀るものだという気付きを得て水底から拾い上げた。

すなわち、氷香戸辺の子の歌は神託とされたことになる。

ところで‥‥この鏡の行方知りたくありませんかぃ?

この鏡、一時は都の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや/奈良県桜井市金屋)にて奉安されるも、日本各地で災いが起こり、これを鏡の呪いだと受け取った天皇は宮外へ持ち出すように命じた。トホホ

その後この鏡は皇女の胸に奉戴され、各地を転々とすることに‥‥‥‥‥

あなたが通であればこの先は語るまでもなく‥‥オホっ

賀茂百樹の「神祇解答宝典」でも「鏡」だとする!

ちなみに靖国神社の宮司を務めた賀茂百樹が昭和十七年に著した「神祇解答宝典」にも、出雲大社本殿に奉安される御神体は「鏡」であると記す。




出雲大社の御神体は「石」?

出雲には古来、勾玉伝承が伝存するように「石」が御神体として奉斎されているという説も‥、これまた素敵にある。

これを傍証するものとして、上記の「氷香戸辺の子の神託」の中の一文がある。

底宝(そこたから)御宝主(みたからぬし) 山河(やまがは)の水泳(みくく)る御魂(みたま) 静挂(しづか)かる甘美御神、底宝御宝主 (水草の中に沈んでいる玉のような石)

この一文から察することができるように、大神を祭らなくなった後、石、つまり玉のような石=勾玉を本殿に奉斎したという説です。

御神体がソロモン第一神殿の黄金のメノラー?

ユダヤのソロモン第一神殿に奉安される黄金のメノラー、つまり「燭台(しょくだい)」が御神体の正体とされる説もあるようです。

この燭台の姿形は8枝(7枝とも)に分かれたメノラーの一種である「ハヌッキーヤー」や「八枝の燭台」とも呼ばれるものであり、ユダヤ教のシンボルともなるものでイスラエルの国章にも採用されるほどのものです。

これがなぜ出雲大社にあるのは謎ですが、なんでも紀元前587年、新バビロニアによって破壊されたソロモン第一神殿の中にこの黄金のメノラーがあったそうで、それが密かに日本へ持ち込まれ、海に面した出雲大社の本殿に御神体として奉安されるようになったという説です。

ただ、この話これで終わらず、なんとぉぅぉぅぉぅっ!!‥‥これが後に8枝(8本)の頭を持つヤマタノオロチ伝承につながったとも言うから驚きを隠せない!!




出雲大社の御神体は「御衾に包まれた”ウツボ”」?

一説には出雲大社の御神体は「御衾(おぶすま)」と呼ばれる分厚い布に包まれていて安置されているそうな。

「衾」とは、主に平安貴族が用いた古典的な寝具の1つで、就寝時に身体にかけたことから、現在の掛け布団のような分厚さの布とみれます。

⬆️御衾(画像引用先:https://ja.wikipedia.org/)

第82代宮司「千家尊統」著した「出雲大社」の中にこのような一文がみえます。

『御本殿の御神体には絹ではなく、錦の類の幅が尺余り・長さも丈余りの御衾(おふすま)に丁重にくるまれていて、その中身はうかがい知れない』

同氏によると、ここでの御衾の解釈とは神代の天孫降臨のみぎり、瓊瓊杵尊(ニニギ)が「真床襲衾(まとこおふすま)」に包まれて地上に降った事実を引き合いに出し、大社の御神体も何重にも巻くようにして包まれていたとする。

実は古代では、”うつぼ(空穂/)”と呼ばれる中身が空っぽの植物の穂の形をした入れ物から神霊が生まれ出るという俗信があったらしい。

然るに御神体はアワビではなく、実は『御衾に包まれた”うつぼ”』だという説もあり得るということ。

だとすれば直政が発した大蛇が出てきたという話が気にかかってきまするな‥‥。

【ピヨ🐣コメント】

真床襲衾は神が神としての神力を発揮できるべく、極限まで神霊を外界の穢れ(けがれ)から遠ざける(護る)意味合いで用いられる。
(伊勢神宮の御神体も何重にも包まれているらしく、その上、何重もの御垣で御神体と本殿(御正宮)を取り囲む)

御神体は極彩色の豪華な筥(箱)?

第八十二代 出雲国造「千家尊統」の記録によると御神体の謎を調べる際、まずは平安期の貴族(参議)「源 経頼」が著した日記「左経記(さけいき)」という旧記を調べたとのこと。
(標題は当人が「参議 兼 左大弁」という職位だったことに因む)

この日記は長和五年(1016年)〜長元八年(1035年)までのまさに藤原全盛時代の政治や文学、典礼などが記されている史料として広く知られる。

この日記の1031年(長元四年)十月十七日の条項に以下のような杵築大社(出雲大社の以前の社号)のことが記されてい‥‥申す。あっひょぃよ〜

社中には七宝で奉製された宝殿(神仏や宝物を収めるための大きめの豪華な入れ物)があり、どうやらこれが無風の状態で倒れたらしく、驚くことに倒れた時に開扉してしまったのかは分からないが、なんにせよ七宝の筥(はこ/入れ物)を安置していたことが素敵に分かったという。
(おそらく極彩色で彩られた荘厳華麗な筥が出てきた)

「七宝(しっぽう)」とは、金属に融け込ませた珐琅(ほうろう)細工(エナメル)の一種であり、古代から現代まで珍重される伝統工芸品の一つ。

⬆️おそらくこのような小箱だと思われる




どうやらこの当時の宮司はその筥が御神体だと認識したとのこと。

平安時代、七宝で作られた品々を持てるのは富貴、いわゆる貴族・高家を示すものであり、それが出雲大社で見つかったということで物議が生じたとか。

風がないのに倒壊したという事実をあえて持ち出してくるあたりも気になるところではある。

それで結論!出雲大社の御神体の正体とはいったいどんな姿形をしている??

‥‥‥と、まぁ、最後に結論を申し伝えれば、出雲大社の御本殿に奉安される御神体の正体とはいっさい不明!‥‥ということになりまする。

そもそも見た者がほぼ皆無であるという事実をもってしても、いかに出雲大社が尊ばれてきたのかが窺い知れます。

足利義満や太閤秀吉、魔王と呼ばれた織田信長、そして徳川家康などなど、日本全土に権勢を誇った歴代の支配者たちですら、御神体を覗きみることだけは避けていた一端が垣間見える。

出雲大社の注連縄にも言えることですが、それほどまでに出雲大社の御神体は強力な霊力を帯び、逆の発想でその霊力を極限までに接点をなくして、封じているとさえ考えることも素敵にできる!

注連縄はまさにその最後の砦とも受け取れる。

だとすれば上述、松平直政の話にあったように「大蛇が飛び出てきた」というのも、マンザラではないのかもしれませんゼ。

御神体は時代の変遷の中で‥変わった?(取り替えられた?)

千家尊統は自著にて次のようにも記す。

ご遷宮の記録も調べたが、どうやら時代を下りながら御神体を運ぶ輿舁(こしかき/輿をかつぐ輿丁のこと)の人数も増えていってることから、ひょっとすると御神体が異動(交換)されたのではないか?

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