出雲大社の境内案内MAP一覧❤️

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出雲大社は広大な敷地を誇りますが、出雲大社における境内とは銅鳥居より内側、すなわち荒垣(あらがき)から内側が正式には”境内”と呼び習わしているようです。

以下では境内と神域とで分けてご紹介しましょう!

島根県・出雲大社の境内の詳細「案内図(地図・マップ)」(ダウンロード可能)

出雲大社の境内案内MAP一覧❤️

※タップorクリックすると大きくなります。

【その1・荒垣内案内地図】

島根県・出雲大社の境内の詳細「案内図(地図)」【その1・荒垣内案内地図】引用先:出雲大社パンフレット

【その2・境内案内地図】

島根県・出雲大社の境内の詳細「案内図(地図)」【その2・境内案内地図】

【その3・神域案内地図】




出雲大社の境内の広さは「ユニバーサルスタジオジャパン」とほぼ一緒?!!

出雲大社の境内の広さは、約18万平方メートルで、坪に換算すると約5万6000坪となります。

しかし、この広さは境内だけの広さですので、境外にある摂社や末社や山林の敷地を、含めると約38万平方メートルとなり、これは、大阪・此花区に現存する「ユニバーサルスタジオジャパン」の広さ、約39万平方メートルと、ほぼ同じ大きさとなります。

「出雲大社」の正しい読み方と言い方

あまり知られていませんが、出雲大社は時代によって名前がいくつか改称されています。

たとえば江戸時代では「杵築大社(きづき たいしゃ)」や「杵築大社(きづき おおやしろ)」と読まれ、他にも太古の時代においては「天之日隅宮(あめのひすみのみや)」「杵築宮(きづきのみや)」などと称され、歴史と共に篤い崇敬が寄せられてきた歴史があります。

ちなみに”杵築”とは、出雲大社本殿のような巨大な建造物を造営する際、根っこ(足元)を”つき固める”と意味合いがあるようです。また、江戸時代の出雲大社の周辺一帯は「杵築」の名前に由来からか「杵築」とお命名され、出雲大社の神領と位置付けられています。この神領は代々、国造家(千家・北島)の社家が世襲制で管理運営していましたが、明治時代に廃されて現在のような様相に至っています。

なお、明治時代となる1871年(明治4年)には同時に「出雲大社」と改称されており、以降、現代で至るまで一般的に「出雲大社(いずもたいしゃ)」の名前で親しまれています。

しかし、正式な読み方は「出雲大社(いずも おおやしろ)」と読みます。

1871年(明治4年)に、「杵築大社から出雲大社」へと名を改めた理由

1871年、明治4年に杵築大社から出雲大社へと名前が改められています。名前が改められた理由は、現代まで不明とされています。

明治時代の初期に「神仏分離令」が発動されて、神道と仏道がきっぱりと決別し、まったく別の2つの道を歩むこととなりました。

この神仏分離令は1868年に発令されていますが、その3年経ったあとで出雲大社へと名前が変わっています。

この神仏分離令の発令により神社はすべて国家の所領となり、古来、「出雲氏(北島家・千家)」が代々世襲してきた出雲大社の制度が廃止されています。

名前が変わった仮説としては、神仏分離令によって国家の所領となり代わり、従来からの名前も、国家(=国民)の神社として名前に改められようと考えられ、単純に「出雲市にある大社(神社)」ということで「出雲大社」となったのではないか?と考えらます。

現在では、千家と北島家は、それぞれ、独自の宗教法人を設立しています。

  • 千家=「出雲大社教」
  • 北島家=「出雲教」

おわりに・・

出雲大社での参拝があなたの人生を変える起点となればそれは本当に喜ばしいことであり、出雲大社での「縁結び」のご利益があったということです。

真剣にお祈りすれば、きっと願いは叶います。

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