牛と馬の像が出雲大社で崇められていた?!「牛と馬の像の由来・歴史・意味」

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牛と馬の像が出雲大社で崇められていた?!「牛と馬の像の由来・歴史・意味」

出雲大社と「牛と馬」と「牛・馬の像の由来・歴史・意味」出雲大社には銅製の「馬と牛の像」があります。

この像は、境内(けいだい)御垣内の出入口にあたる銅鳥居(4番目の鳥居)をくぐった左脇にあります。

牛と馬の像が出雲大社で崇められていた?!「牛と馬の像の由来・歴史・意味」この「牛の像」と「馬の像」にも、出雲大社と深い関わりがあり、過去に壮大な物語が秘められているのです。

ここでは、この像の過去の由来や歴史を物語として、ご紹介して行きたいと思います。

「牛と馬」が出雲大社の境内にある理由

出雲大社にはなぜか「牛と馬」の銅像がお祀りされています。

よくよく考えてみると出雲大社にあまり関係ないような気がします。

しかし「牛と馬」には以下のような意味合いもあると云われています。

実は「牛と馬」は「神様の乗り物」や「神様の使い」とも言われています。

そのため、境内の入口と言う位置で小屋に置かれているのだと考えられています。

神様の乗り物である「牛」と「馬」は「神牛(しんぎゅう)」と「神馬(しんめ)」などと言われています。

しかし出雲大社の場合は、神様の乗り物などではなく、このような言い伝えが古くからあります。

  • 「神牛」は学力向上
  • 「神馬」は子宝・安産の御利益がある

出雲大社に「牛の像」が置かれている2つの理由と「由来・歴史・意味」

えぇぇっ?!菅原道真が「出雲・千家」と同じ一族だった?!

学問の神様と言うと、まず脳裏に浮かんでくるのが、あの人です。

そうです。「菅原道真(すがわら みちざね)」です。

実はこの菅原道真ですが、なんと!

祖先が出雲の国の出身で、出雲・千家家の親戚関係のあたる家系だったのです!

つまり、出雲と菅原道真の関係は深いつながりがあったことになり、出雲大社で菅原道真を祀っても、何ら不思議ではないと言うことになります。

これが出雲大社に牛の像が置かれている1つ目の理由となります。

菅原道真の家系図(ルーツ)

実は、そもそも菅原家は、天照大神の第二子とされる「天穂日命(あまのほひのみこと)」の子孫なのです。

分かりやすく言えば、菅原家のルーツは「天穂日命」の末裔とされる「野見身臣」と言う人物が、第16代天皇・「仁徳天皇」より「土師氏(はじうじ)」と言った姓を賜ることに始まります。

天穂日命→建比良鳥命→櫛瓊命→津狭命→櫛瓱前命→櫛月命→櫛瓱鳥海命→櫛田命→知理命→毛呂須命→『出雲千家・北島國造家』
毛呂須命→阿多命→氏祖命→野見宿禰→野見身臣(土師氏を名乗る)→土師宇庭→菅原古人(菅原姓)→『菅原道真』

大宰府天満宮と出雲大社の秘められた関係


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その他にも出雲大社に牛の像が置かれている理由が、もう1つあります。

その理由とは以下のようなことです。

大宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)の「神牛の像」を思い出してみてください。

その他の出雲大社に牛の像が置かれている理由大宰府天満宮も、この出雲大社の牛の像と同じように「横たわっています」

大宰府天満宮の「牛の像」も「学力向上」という御利益があります。

そして、大宰府天満宮は「学問の神様」と言われた「菅原道真」が、没した地であり、道真が祀(まつ)られている神社です。

「菅原道真」ほど、その生涯において牛と関わりの深い人物はいない??

「菅原道真」ほど、その生涯において牛と関わりの深い人物はいない??「菅原道真」は「丑年(うしどし)」の生まれであり、「牛に命を助けられた」等、牛との深いつながりある人物でもあります。

その代表的なものとして、有名なのが「道真の遺言」です。

道真は、死を悟った時に、このような遺言を残して大宰府の地で亡くなっています。

私を牛車へ乗せて、あとは牛の行くままに牛車を任せよ。牛の止まったところに、私を埋葬(まいそう)してくれ。

と、言ったそうです。

この後、道真が死期を迎えると、これを聞いていた周りの者は、すぐさま道真を牛へ乗せて、道真に言われた通りにするのです。

やがて牛車が止まり、その場所に道真を祀るために社を築きます。

この社は、現在では「太宰府天満宮」と呼ばれている有名な神社となっています。

このように「学問の神様」である菅原道真から大切にされた「牛」は「神の使い」とされ、全国の天満宮や同じく道真を祀る天神社では「神牛」として「神牛の像」が置かれていると言われています。

これが出雲大社に牛の像が置かれている2つ目の理由となります。

これらのことから、出雲大社にも「神牛の像」が置かれていることになります。

出雲大社「神馬の像」の「意外なご利益」と「由来・歴史・意味」

出雲大社の「神牛の像」の真横に「馬の像」が並んで、お祀りされています。

今度は、この「馬の像」の由来や歴史についてのお話です。

出雲大社「神馬」の由来・歴史・意味

出雲大社の「馬の像」は、4番目の銅鳥居と、ほぼ同じ時期に出雲大社に贈られていた?!

「馬の像」は、この4番目の銅鳥居と、ほぼ同時期である1667年(寛文7年)に、「周防(すおう)国」と「長門(ながと)国」つまりは現在の山口県を支配していた藩主「毛利綱廣公(もうりつなひろ/綱広)」が 出雲大社に寄進したと伝えられている像になります。

また、地元・出雲では、別名で「かねうまさん」とも呼称されて親しまています。

この像は上記の「毛利綱広」が、京都の名工である「名越弥七朗(なごしやひちろう)」に依頼して作らせたと云われています。

しかし、名越弥七朗は毛利綱広から、この注文を受けた時、有り難い気持ちと同時に真剣に悩んだそうです。

弥七朗が悩んだ理由とは、毛利綱広が注文した時、ちょうど「名越弥七朗」の妻が妊娠していたからです。

出雲大社の「神馬の像」のご利益と・・出産は【ケガレ】

名越弥七朗が妻の妊娠で悩んだ理由とは、神社では古くからの言い伝えで「出産は【けがれ】」と云われていたためです。

よって、妻が出産をしてしまうと、毛利綱広からの注文を受けることが、できなくなってしまいます。

困った弥七朗は、とりあえず毛利綱広からの注文を受けることにします。

そうして、夜な夜な作業が終わると、1人で出雲大社へ訪れ、大国主大神にひたすら祈りを、このよう言いいながら、捧げ続けたのです。

どうか、今一度、妻の出産の時期が遅れますように・・

そうして連日にも及ぶ、弥七朗の祈りが通じたのか、弥七朗の妻の出産は遅れることに成功したのです。

そうして、見事な「馬の像」が完成したのです。

しかも、それだけではありません。

その後に生まれた弥七朗の子は「すくすくと元気に育つ、当時では珍しいほどの健康で丈夫な子」に育ったそうです。

さらに通常の出産よりも、約3ヶ月も遅れて生まれて来た子だったにも関わらず、安産だったということです。

これらの事から「神馬」は子宝・安産の御利益があると言われるようになったとのことです。

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