出雲大社(IZUMO-OYASHIRO)・千家尊福の像(SENGE-TAKATOMI-ZO)
造立年
1963年(昭和38年)5月7日
材質
銅
「千家尊福」の読み方
千家尊福は「せんげたかとみ」と読みます。
ところで・・「千家尊福」って??
「千家尊福」は出雲大社の第80代(1872年-1882年)の宮司を務めていましたが、国家神道との宗教的見解の相違を知って、神道事務局から独立して教化活動をする必要があると考えました。
そのため1882年(明治15年)に出雲大社の宮司を辞職して弟の千家尊紀 (せんげたかのり)に国造と宮司を譲り、自身は出雲大社教会を創始して神道大社派を設立しました。
神道大社教管長(1882年-1888年)の時には、精力的に全国を歴訪して布教に専念されています。
その後、男爵の称号を与えられています。
1888年には伊藤博文の推挙で元老院議官となって教管長職を辞職、その後さらに、貴族院議員、埼玉、静岡、東京の知事、第一次西園寺内閣の司法大臣、東京鉄道株式会社社長などを歴任されています。
また、「一月一日」という有名な唱歌(年の〜始めの〜♪)の作詞もしていることから、詩人や歌人としての才能も発揮されています。
出雲國造家の分裂とその後(現在)
出雲氏は南北朝時代に、お家が内部分裂を起こし、「千(せん)」と「北島(きたじま)」という2つの苗字が新たに誕生しています。
南北朝時代とは?
南北朝時代といえば、当時、日本の中心であった京都の北側地域と南側地域とに分かれた諍いがあった時代です。
北川は景子と呼ばれ、南側は・・アレ?あ!北側は「北朝」!!、南側は「南朝」と呼ばれており、北朝には室町幕府初代将軍「足利尊氏」が擁立した「光明天皇」、南朝には京都から現在の奈良県吉野に位置する「吉野行宮」に移った「後醍醐天皇」が並立する形で皇位を継承しています。ふぅ
つまり同じ時代に天皇が2人いたことになりますので、それぞれの天皇を中心とした勢力が生まれ、いがみ合いが生じました。しかし1392年(元中9年/明徳3年)に第4代南朝天皇「後亀山天皇」が、北朝第6代天皇である後小松天皇に皇位を譲り、約56年間続いた二分政治に幕を閉じています。
こうした時代背景もあって、時代の流れと共に争いの意識も記憶の彼方へと消え去り、以後、出雲大社の神事は「奇数月を千家家」、「偶数月を北島家」が担当しています。
その後、千家尊福氏は政界へ進出する縁に恵まれ、これによって出雲大社の知名度が高まるのと並行して、出雲大社における発言力を背に受け、神事のほとんどを千家家が執り行う運びとなります。
現在では「出雲大社教の千家氏(せんげし)」「出雲教の北島氏(きたじまし)」として広く知られています。
そして現在、「出雲國造」の官職に就いているのが「千家氏」となります。現在の千家氏の長は「千家国麿(せんけ くにまろ)」と言う方で、第85代目の「出雲国造=出雲大社の神主」となります。千家国麿さんと言えば、最近、天皇家の高円宮典子さまとのご結婚で話題にもなっています。
以後、出雲大社の神事は「奇数月を千家家」、「偶数月を北島家」が担当しています。(神在月は北島家)
その後、千家尊福氏は政界へ進出する縁に恵まれ、これによって出雲大社の知名度が高まるのと並行して、出雲大社における発言力を背に受け、神事のほとんどを千家家が執り行う運びとなります。
以上、このような多大な功績を残した千家尊福氏をたたえ、銅像としてお祀りしているものです。
千家尊福の像の場所(地図)
「千家尊福の像」は、勢溜(せいだまり)の鳥居(二の鳥居)の右方向にあります。
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