出雲大社では境内の「神牛の像」の真横に「馬の像」が並んでお祀りされています‥ワ〜。
この「馬の像」、ちょ〜っとしたこんな由来や歴史がお馬さんなんです‥ワ〜。 なにがしたい
出雲大社の「馬の像」は4番目の銅鳥居とほぼ同じ時期に出雲大社に贈られた?
この馬の像は、この4番目の銅鳥居と、ほぼ同時期である1667年(寛文7年)に、「周防(すおう)国」と「長門(ながと)国」つまりは現在の山口県を支配していた藩主「毛利綱廣公(もうりつなひろ/綱広)」が 出雲大社に寄進したと伝えられています。
また、地元・出雲では、別名で「かねうまさん」とも呼ばれ親しまています。
この像は上記、「毛利綱広」が、京都の名工である「名越弥七朗(なごしやひちろう)」に依頼して作らせたと伝えられています。
しかし、名越弥七朗は毛利綱広から、この注文を受けた時、有り難い気持ちと同時に真剣に悩んだそうです。
弥七朗が悩んだ理由とは、毛利綱広が注文した時、ちょうど「名越弥七朗」の妻が妊娠していたからです。
出雲大社の「神馬の像」のご利益と・・出産は【ケガレ】??
名越弥七朗が妻の妊娠で悩んだ理由とは、神社では古くからの言い伝えで「出産は【けがれ】」と云われていたためです。
よって、妻が出産をしてしまうと毛利綱広からの注文を受けることが、できなくなってしまうと考えたからです。
困った弥七朗は、とりあえず毛利綱広からの注文を受けることにします。
そこで色々と考えた挙句、弥七朗は夜な夜な作業が終わると1人で出雲大社へ訪れ、大国主大神の御神座を前にして、このようにつぶやきながら捧げ続けたのです。
『どうか、今一度、妻の出産の時期が遅れますように・・』
こうして連日にも及ぶ、弥七朗の祈りが通じたのか、弥七朗の妻の出産は遅れることに成功したのです。
そして見事な「馬の像」が完成したという話です。
しクぁし!この話はこれだけでは終わりません!
なんとぉぅ!その後に生まれた弥七朗の子は「すくすくと元気に育つ、当時では珍しいほどの健康で丈夫な子」に育ったとのこと。
その上、通常の出産よりも約3ヶ月も遅れて生まれて来た子だったにも関わらず、安産だったということです。
これらの事から「神馬」は子宝・安産の御利益があると言われるようになったとのことです。
この神馬の像は御祭神が水神であることを示すもの?
馬や牛はかつては水神の神使とされていたという説があり、水神への捧げ物とされた歴史もある。
無理やり結びつけるわけではないが、どうやら御祭神の大国主大神の御神体(実態)そのものが龍蛇神であるという説も素敵に存在し、龍といえば水神なので、これら出雲大社境内で見られる「神馬の像」と「神牛の像」は大国主大神への捧げ物という説も素敵にある。
神馬の像が置かれている場所(地図)
神馬の銅像は、境内(けいだい)御垣内の出入口にあたる銅鳥居(4番目の鳥居)をくぐった左脇にあります。
真隣りには神馬の銅像も置かれています。
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