【出雲大社本殿の歴史】位置(場所)は時代によって違った?

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あまり知られていないが、実は出雲大社の本殿は創建当初から現在の場所に建てられていたわけではなかった。

本項では時代毎の出雲大社本殿の場所(位置)を素敵に述べるものである。(※注意※あくまでも論考になるので事実ではない)




出雲大社 本殿【国宝】の概要と簡単な歴史

⬆️出雲大社・本殿裏側

創建年

不明

推定:大昔(神話の時代)

【補足】出雲大社の倒壊と再建の歴史

🐥奈良時代

できごと
659年 (斉明5年)出雲国造 に命じて神宮を造らせる

🐥平安時代

970年 (天禄元年)源 為憲が著した口遊に
「雲太・和二・京三」 と素敵に記され
東大寺大仏殿より高い建造物とされる
987年 (永延元年)正殿式遷宮
1031年 (長元4年)出雲国 杵築大社 社殿転倒
1036年 (長元9年)正殿式遷宮
1061年 (康平4年 )出雲国 杵築大社 社殿転倒
1067年 (治暦3年 )正殿式遷宮
1095年 (嘉保2年)出雲大社 地震により鳴動
1109年 (天仁2年)出雲国 杵築大社 社殿
が傾く(転倒しかける)
1110年 (天仁3年)大社造営用の巨木百支が大社西側の
稲佐浦(浜)に漂者す
1114年 (永久2年 )正殿式遷宮 (寄 木造営)
1141年 (保延7年 )出雲国 杵築大社 社殿転倒
1145年 (久安元年)正殿式遷宮
1172年 (承安2年)出雲国 杵築大社 社殿転倒
1175年 ( 元元年)仮殿式遷宮

🐥鎌倉時代

1190年 (建久元年)正殿式遷宮
1225年 (嘉禄元年)この歌僧・寂蓮法師が参詣。
天雲たなびく山の半ばで
大社の屋根上の千木が見えたと語る
(寂蓮法師集)
1227年 (嘉禄3年)出雲国 杵築大社 社殿転倒
(1235年とも)
1248年 (宝治2年)仮殿式遷宮
1261年 (弘長元年)正殿式遷宮 (出雲大社 神郷図)
1270年 (文永7年)出雲大社 地震により鳴動
1282年 (弘安5年)杵築大社火災。
神体は回禄の難を免れる
1325年 (正中2年)仮殿式遷宮

🐥室町時代

できごと
1386年 (元中3年)仮殿式遷宮
1412年 (応水19年)仮殿式遷宮
1442年 (嘉吉2年)仮殿式遷宮
1467年 (応仁元年)仮殿式遷宮
1486年 (文明18年 )仮殿式遷宮
1519年 (象正16年 )仮殿式遷宮
1550年 (天文19年 )仮殿式遷宮
1580年 (天正8年)仮殿式遷宮

🐥江戸時代

できごと
1609年 (慶長14年)仮殿式遷宮 (杵築大社近郷絵図)
1667年 (寛文7年)正殿式遷宮 (敷地大造成整備)
1744年 (延享元年)正殿式遷宮
1809年(文化6年)御遷宮御修造
(屋根葺替などを主とした修営)

🐥明治時代

できごと
1881年(明治14年)御遷宮御修造
(屋根葺替などを主とした修営)

🐥昭和時代

できごと
1953年(昭和28年)御遷宮御修造
(屋根葺替などを主とした修営)

🐥平成時代

できごと
2013年(平成25年)御遷宮御修造
(屋根葺替などを主とした修営)




建築様式

掘建柱、切妻造、妻入

※大社造

屋根の造り

檜皮葺(総重量:約40トン/枚数:約64万枚)

大きさ

高さ:24m

母屋(殿)部分:四辺11m※正方形

心御柱の直径:約1.1m

宇豆柱の直径:約87cm

千木:長さ7m80cm

勝男木:長さ5.5m

大屋根の面積:約180坪

重要文化財登録指定年月日

1900年(明治33年)4月7日

国宝登録指定年月日

1952年(昭和27年)3月29日

御祭神(主祭神)

大国主大神

相殿神

天之御中主神

高御産巣日神

神産巣日神

宇摩志阿斯訶備比古遅神

天之常立神

大国主大神の神徳(ご利益)

縁結び、農業繁栄、医療繁栄(医学向上)、商売繁盛(招福)..etc

出雲大社本殿の時代毎の位置(場所)の遷移

出雲大社の本殿は過去に幾度か造営された(再建された)場所が異なっており、これらは発掘によって検出された当時の柱や遺構によって明らかにされた。

【補足】出雲大社の本殿の位置

平安時代から鎌倉時代の御本殿の位置

上図によると、平安期から鎌倉時代には現在の場所より、少し前方に造営されていることが分かる。

それに階段がクソこのヤロ〜なほど、長かったことが確認できます。

太古の出雲大社は48メートルもの高層大神殿だったという論考もあり、このようなケタ違いの階段の長さになったとみれる。

過去、幾度も倒壊していた出雲大社本殿

現在までの研究では、平安時代中期頃から鎌倉時代初期頃までの約200年の間に本殿は7回も倒壊していたとする。

特に強風や地震が起こる度に倒壊していたらしいが、こと長元五年(1032年/平安中期)8月11日の倒壊は、当時のこの年代に地震や強風が無かったため、他の要因で倒壊したと推考されてい‥申す。あひぃ

同時にそれなりの高さを有したことの傍証ともなる。

延享元年(1744年/江戸中期)造営の本殿(つまり現在の本殿)でも約24mもの高さを有することから、以前はもっと長大だった可能性も”素敵”に”捨てき”れない。

室町時代の御本殿の位置

室町時代の御本殿の位置は平安期から鎌倉期の本殿の位置よりも、もっと前方に建てられているのが素敵に分かる。

これはおそらく現在の境内配置図から見て「拝殿」のあたりになるのではないかと、これまた素敵に思われる。

そして室町期に入ったあたりから、よぅやく現代でも見られる階段の長さに戻ったことが、さらに素敵に分かる。

江戸時代(慶長年間)の御本殿の位置

次いで1609年(慶長年間/江戸時代)の再建では、再び、平安期から鎌倉期の場所に戻される形で営まれた。

また本殿の高さも現在の24mには至らず、20mほどであったと伝わる。

しかし階段の長さは室町期の長さを受け継ぎ、短いままで造営されたとされる。




江戸時代(寛文年間)の御本殿の位置

次いで1667年(寛文年間)には何が起こったのか、大幅に後方に御本殿が造営されています。

【補足】出雲大社の本殿の位置

ちなみに、この1667年と言うと、出雲大社の歴史上でもっとも大きな出来事が起こっています。

なんだかお分かりになりますか?

そうです。出雲大社の主祭神が素戔嗚尊(すさのおのみこと)から、現在の大国主大神に戻された年です。

この年は境内で大規模な遷宮が行われ、境内に林立した堂塔を撤去すると共に神仏習合の思想を一掃し、古代から踏襲される原初的神道の教義に基づいた出雲大社へと戻った。

江戸時代(延享年間)の御本殿の位置

この1744年(延享年間)に行われた再建による姿が、現在の御本殿の姿になります。

また、御本殿以外に現在見ることのできるほとんどの境内の社殿群や景観もこの時のもの。

ご興味のある方は、ぜひ、色々と探求したもれ。

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