出雲大社の祭神「大国主大神」は なぜ「縁結びの大神」と呼ばれるのか?

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大国主大神が「縁結びの大神」と呼ばれる理由

‥は!実のところ、現今に到ってまで判然とはしていない。

出雲大社の御祭神は創建時には大国主大神であったが、武家が統治する時代になると、概ね中世の然る時期から御祭神が旧来の大国主大神から→ スサノオ神へと素敵に代わった。(鎌倉初頭にはすでにスサノオ神に代わっていた)

【ピヨ🐣コメント】

中世になると、祇園社(八坂社/京都)における祇園信仰が、にわかに勃興し、その影響は全国各地にまで轟いた。

その影響により、大国主大神の父神たる荒ぶる神・祇園の神ともいわれるスサノオ神が主祭神へと祀り上げられる一助となったことは想像にかたくない。

その後、現今の大国主大神へと戻されたのが寛文七年(1667年)の遷宮時になるらしいが、この傍証として現在の出雲大社境内に屹立する1666年寄進の銅鳥居の刻銘に「素戔嗚尊者雲陽大社神也‥とある。

然るに、江戸時代中期初頭あたりまで出雲大社の主祭神はスサノオ神だったことになるわけだが、それまでの数百年間は、記録上、現今の大国主大神が主祭神でなかったことになる。

然るにもし当時、縁結びの利生について世間を賑わしていたのであれば、現今の大国主ではなく、スサノオ神こそが縁結びの大神だったことになる。

出雲大社の縁結びの利生は道祖神が根源だった?!

中世といえば主に鎌倉幕府が全国を統治した時代であり、それまでの王政のもと、地中深くに追いやられていた武家が、ようやく日の目を見られる時代へと移り変わり、武士たちが活況に湧きじゃくった時代の到来でもあった。

そんな時代、主役たる武士たちが信奉したのが、自身の死後、極楽浄土へと導いてくれる浄土信仰や、新しく大陸から伝来した禅宗という仏教だった。

そのような時代の潮流の中、全国津々浦々、出雲の神の縁結びの利生が、はたしてどのように伝播していったのだろぅか?

実は中世末の一時期、出雲に縁結びの利生があるという信仰が、京都の縁結び♡で知られる「幸神社」から伝播していったという説がある。

当該、幸神社は別称で「出雲路幸神社(いづもじさいじんじゃ)」とも呼ばれ、名前が示すように当社は出雲へ到る出雲路の出発点に鎮座する。

実は同名で同様の利益を有する神社が出雲安来市にも存在し、かつて出雲族の分家が京都を根拠地とし、その屋敷内に営まれたのが当社(幸神社)の起こりだという。

当社は道祖神で知られる道案内の神「猿田彦」を主神とし、その配神として大国主が配祀されるも、どうやら夫婦和合の利生でも知られていた、猿田彦が具有した縁結びの利益の方が有名だった。

当社には、紀州(和歌山)熊野庄司(荘園管理者)の娘「弁吉女」が縁結びを祈願したところ、良縁を授かって産声をあげた子が、かの「武蔵坊弁慶」だったという伝承がある。

江戸時代中期初頭、出雲は縁結びの利生でにわかに天下に知られた?!

江戸時代も「町人文化」の異称で知られる元禄時代を素敵に迎える頃、諸国の噂をよく耳にするようになった江戸っ子たちは、しきりに全国各地の噂話をするようになった。

実はこの当時、出雲が縁結びの利生で知られていたという史料が散見されるも、実際は大国主の父神にあたるスサノオ神が具有した縁結びの利生だったといわれる。

【ピヨ🐣コメント】

スサノオ神は姉神のアマテラスより、天界を追放されて地上へ降臨した。

その当時、出雲地方にはヤマタノオロチという大蛇がいて、ピチりまくった娘っ子をさらってきては、もぅ、ア〜んなペロペロなことや、こ〜んなヴァっ!ヴァっ!チュチュ…ピュっ……てなことを散々にしまくった挙句、パクリ!…と食べちまっていた時期だった。 ピュっは何んや

そのオロチを撃退したのがスサノオ神だったわけだが、今にもオロチに食べられそうになっていたピチピチと音が出ちまぅほどにピチりまくっていた女子を助けて、その女子と結婚、その後、子神をもうけて、当地では古くから縁結びの神として知られていた。(現在の八重垣神社が、オロチとスサノオ伝承の舞台の一つとされ、当社では創建当初よりスサノオ神を縁結びの神として素敵に奉祀する♡)

では実際に当時どのような形で出雲の縁結び♡について語られていたのか。

例えば、貞享二年(1685年)、出雲大社の神在祭に由来した「間(あい)」と呼ばれる狂言の謡本に、出雲について「男女ふうふのゑんをも御定」‥などの記述がある。

また、続く貞享三年(1686年)に刊行された井原西鶴の「好色五人女」にも、出雲大社の縁結びについて記されており、江戸中期初頭にはすでに出雲の縁結びの利生が、ある程度広まっていたともみれる。

そもそも大国主大神が縁結びの大神として崇拝されるようになったのはいつ頃からなのか?

実は大国主大神には別名が幾つかあるのをご存知だろぅか?

有名どころを…やっぱり素敵に挙げると、大己貴神や大物主(三輪神)、大穴牟遅神、出雲大神 等が述べられる。

その数ある名の中の一つに、「天の下造らしし大神」という神号がある。

これは名前が示すように、当初の大国主大神は「国土の創造神」であって、縁結びの神などではなかった。

然るに、大国主大神が縁結びの神とされたのは、比較的、近世になってからのことだと推考でき…ちゃぅ💋

もし、現在の出雲大社が縁結びの利生で広く全国に知られる存在なのであれば、それは大国主大神の父神たるスサノオ神が色濃く影響を及ぼしているということを忘れてはならない。

時に現実と神話が錯綜することで、史実が捩じ曲げられることもある。

実際、大国主大神を素敵に考察しまくると、前出のように名前が数多にあって、それだけに伝承も多く、おそらくこの神ほど謎に満ちた神はいないとさえいえるのであ〜る。

大国主大神が縁結びの神と呼ばれるようになった理由を故事から考察する

大国主大神は数多の女神とに間に数多の子を成した

大国主大神は、国土の創造神といわれるように現在の日本国(葦原の中つ国とも呼ばれる)の創造神なわけだが、国土が大きくなってきた頃、自身が一人ぼっちなのに気づいた。

そんな時、大国主のもとへ「幸魂奇魂」という未知なる存在がやって来て、大国主は万物を産み、物事を発展させる幸魂と、奇跡によって事を成し遂げる奇魂という霊妙な存在を知る。

この存在を知った大国主は、国民を創造すべく、多くの女神をシコタマ口説き落とし、ワンサカとペロペロペロ‥、ヴぁっ!ヴぁっ!ヴぁっ!コラぁっ!オラぁっ!ハぁぁぁ!…ガクっ。‥などと毎夜交尾に交尾で交尾を重ねまくり、そして、ワンサカと子を成した‥。 ガクっ。てなんや

これがまず、大国主が縁結びの大神といわれる理由の一つとなる。

八百万の神々が大国主のもとへ参集する様相が縁結び?

大国主大神は、国づくりを行い、ペロペロペロ‥、ヴぁっ!ヴぁっ!ヴぁっ!コラぁっ!オラぁっ!テぃヤァぁぁらっ、ホっ!‥ふぅ〜…などと子作りに励みたおし、その結果、国は発展した。 ふぅ〜はなんや

その状況をみたアマテラスは天界から大国主のもとへ使者を送り、創造した国を譲って欲しいといってきた。

当初は断り続けた大国主だったが、諦めの悪いアマテラスは使者を代えて次々と天降らせ、やがて大国主も自らが苦労して創造した国を譲ることに同意しちまぅ。(国譲り神話

しかし、大国主はアマテラスに譲渡の条件を出し、自らが暮らす巨大で立派な神殿を建てて欲しいと告げた。

アマテラスはこれを受け入れ、さらに大国主を幽界(黄泉の世界)の王として、以後は幽れたる神事(神々)を治めるように告げた。

爾来、大国主は幽界の王として全国の神々、いわゆる八百万の神々を統べる主宰者となり、神々も主宰者たる大国主のもとへ年に一度の神在月、縁結びの会議を開くために出雲の巨大神殿にいる大国主のもとへやって来ることになった。

‥もはや多くを語るまでもないが、巨大で立派な神殿というのが、今日の出雲大社のことであり、その出雲大社へ全国からゾロゾロと八百万の神々(数えきれないほどの神々)が群参する様相こそが、縁結びそのものを示す…という見方もある。

尚、「幽れたる神事」とは、『目に見えない「縁」を結ぶこと』‥という内容の神事になるらしく、然るに「縁結びの会議(神議り)」のこと指す。

殊に、藤原清輔が平安後期(2世紀半ば)に素敵に著した歌学書「奥義抄(おうぎしょう)」に、「天下諸々の神が出雲へ向かう」…などという記述があり、現今、これが八百万の神々出雲伝承についての最古の記録になるという。

出雲大社のご利益

‥については下記ページを素敵に要チェック💘

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出雲大社の神在祭について

‥の詳細は下記

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