出雲大社(IZUMO-OYASIRO)・千家国造館 (SENGE-KOKUSOUKAN)

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出雲大社(IZUMO-OYASIRO)・千家国造館 (SENGE-KOKUSOUKAN)

出雲大社(IZUMO-OYASIRO)・千家国造館 (SENGE-KOKUSOUKAN)

千家国造館の読み方 

出雲大社の境内には、難しい読み方をする社殿が点在していますが、千家国造館は「せんけ くにつくりかん」や「せんげ こくぞうかん」ではなく、「せんげ こくそうかん」と読みます。

神職の間では、別名で「永職館(えいしょくかん)」とも呼ばれます。

本来「国造」は、”くにつくり”や””こくぞうと呼称されることが多いのですが、出雲地方では、国造を「国曹」とも書くようで、あくまでも「こくそう」と呼称しています。




千家国造家(千家国造館)とは?

出雲大社の隣に、「出雲国造家(いずもこくそうけ)・千家国造館(せんげこくそうかん)」があります。

千家国造館の場所は、出雲大社の境内にある「神楽殿」を南にでて直ぐ右にあります。

千家国造館の門には、大きな注連縄がかけられていますが、出雲大社の宮司の住まいです。

千家氏の先祖は、出雲氏で、天照大御神の第二子「天穂日命(あめのほひのみこと)」を祖とし、代々、出雲国造、出雲大社宮司、出雲大社教管長の職を行っている氏族です。

詳しくは崇神天皇の頃に成立し、天穂日命の11世代経た孫の「宇迦都久怒(うかつくぬ)」が初代の出雲国造と伝わっています。

以降、現在まで世襲制で国造家は続き、現在の国造は第84代「千家尊裕国造」で、2002年に国造に就任しています。

ちなみに、千家尊裕国造の長男の「千家国麿(せんげ くにまろ)氏(現:出雲大社の権宮司)」が、「高円宮憲仁親王の第二女子(典子女王)」と結婚されました(2014年10月5日)。

このニュースは明るい話題として日本中を沸き立たせました。

千家国造家の見どころ

斎火殿

斎火殿は「さいかでん」と読み、これは千家国造館でもっとも重要な場所であり、もっとも神聖な場所になります。出雲大社内の神事の際、国造(宮司)はこの斎火殿に、こもって潔斎(けっさい)を行い穢れを祓います。

斎火殿には、国造が宮司の任期を終えるまで、絶対に絶やしてはならいとされる「神火」が灯されており、潔斎では、この火で調理した食事のみを食べます。

神火は、コンビニライターでカチッ!カチッ!あれ?なんでつかんねや?湿っとるんか?・・ボっ!!あぢっ!・・などとさせて付けたものではなく、古式を踏襲し「火きり臼」と「火きり杵」も用いて起こされた火です。

なお、この「火きり臼」と「火きり杵」は、国造家の祖先である「天穂日命(あめのほひのみこと)」が、熊野大社(島根県松江市八雲町熊野/出雲国一宮)の主祭神「櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」より授かったものであり、国造家の神器とも云われています。

万が一、国造に不幸などがあって代替わりする時は、代々受け継いできた「火きり臼」と「火きり杵」を持って、現在でも昼夜問わず、熊野大社へ赴いて「火継式」を行ったのちに代替わりできる仕来りになっているようです。

書院

1912年(明治45年)に大正天皇が出雲大社に参拝された折、足をお運びになられた部屋です。大正天皇行幸のちも、代々の皇族が見えられたとのことです。

永職館

永職館とは、『子々孫々、永遠にその職に就いて出雲大社を守護して語り継いでいく』などの意味合いがあります。

これは1667年(寛文7年)に特別な思い入れてで付された名前であり、以降、現在にいたっても千家国造館は別名で「永職館(えいしょくかん)」とも呼ばれています。

「永職館」と付された経緯(理由)

「永職館」と付されたのは江戸時代中期となる1665年(寛文5年)まで遡ります。この当時江戸幕府は「諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)」と呼ばれる法律を公布しています。この法律によって日本全国の神社の神主を総括管理しようとしたのです。

しかし、出雲大社は神話の時代から続く由緒正しき歴史があり、古式ながら創建以来よりの仕来りを重んじて、代々、これを踏襲してきた背景があります。

そこで幕府の意向に反論することになりますが、ここで幕府と出雲大社の間に入って仲立ちしたのが当時の天皇である「霊元天皇(れいげんてんのう)」です。

霊元天皇は綸旨(りんし/=天皇の命令書)をもってこのように告げられました。

「太古の昔から存在する出雲大社とそれに仕える神職一同は、大社を永遠に守護すべく、創建以来の仕来りを遵守し永遠に継承していくのが倣い。よって永遠にその職を継承すべし。」

この当時の将軍は3代将軍徳川綱吉であり、綱吉公は朝廷に対して友好的であったこともあり、すんなりとこれが容認されます。

なお、この天皇のお告げ(綸旨)は別名で「永宣旨(ようせんじ)」と呼称し、いわゆる永代にわたって有効となる特権をもった命令書のことで、この命令書を出雲大社が受けたということは非常に大きな出来事でした。

このお言葉のありがたみと、身にしみるほどの重みを感じた当時の出雲国造以下、神職一同は、出雲国造家の住まい(出雲国造館)に「永職館」と付して、この時の天皇のお言葉と自らが背負った崇高な使命を永遠に継承していくことを誓うのです。




「出雲国造家」と「出雲国造」の歴史と由来

「出雲国造(いずもこくそう)」は、律令制度の一環で生み出された官職のことを指し、これは出雲国(現在の島根県東部)を支配した、世襲制の「地方官(国造)」です。

出雲国造は、該当の地方の支配(管理運営)と、その土地の祭祀(神事/祭典)のすべてを管理しました。

他に同じ島根県の松江市南部(意宇郡/おうぐん)の郡司(ぐんじ)も兼任し、出雲国造の地位とは当時では、天皇からも一目を置かれた高位の官職でした。

国造とは、どれだけの地位なの?「現在の地位で比較」

ちなみに”国造”を現在でわかりやすく説明すれば「市長」や「県知事」のことを指します。

そして、その氏族の長、つまり出雲国造家の長が、代々「出雲大社の祭祀」と「出雲国造の称号」を受け継いでいきます。

【補足】出雲国造の起源や歴史とその歩み

紀元前

出雲国造は、崇神天皇の頃から配置された官職と云われます。設置された後、時代を経るごとに国造と言う官職が消滅して行き、最後には出雲国造を含めた「紀伊国造」、「阿蘇国造」のみが残っていくことになります。

室町時代

室町時代になると、皇室が南北の2つに分裂してしまい、権力闘争が勃発しますが、当時の守護代が職務の平等な分担化をすることで両者を和解させました。(南北朝時代(1336年〜1392年))

この動きに付随して、出雲国造家内でも祭祀の方法などをめぐる争いが勃発し、およそ1340年頃を境として以降、「千家」「北島」に分かれて、それぞれが出雲国造を名乗るようになります。

この様相は19世紀の後半(幕末)まで続き、出雲大社の祭祀職務は分担され、「偶数月の祭典(神事)は北島家」「奇数月の祭典(神事)は千家」として執り行っていました。(神在月は北島家)

明治時代

明治時代になると、千家氏・北島氏は「男爵」として遇されていました。

しかし、出雲大社は神社本庁の傘下に置かれたため、千家氏は「出雲大社教(いずもおおやしろきょう)」、北島氏は「出雲教」として、それぞれの宗教法人を主宰して分裂しますが、出雲大社の宮司は千家氏が継承していくことで、再び1つにまとまった出雲国造家の様相に戻っていきます。

昭和時代

戦後は、神社は国家が管理せず、神社本庁(伊勢市)の所管となり、出雲大社は神社本庁包括に属する別表神社となっています。千家氏は、宗教法人出雲大社教の宗祀として宮司を担い、現在に至っています。

「出雲大社教」と出雲大社の関係

全国各地にできた、布教活動の信仰組織を結集統合したものが、出雲大社教の起源で、1873年に当時の出雲大社の「千家尊福(せんげ たかとみ)宮司」が創設した教団です。

出雲教の教団と合わせると日本全国になんと!860余もの分社があるとのことです。

1882年の「神官教導職分離令」において「神職の布教活動が禁止」されたため、出雲大社より独立して別組織となっています。しかし、1951年に出雲大社は国家管理を離れたため、1882年の分離令は失効しています。

その後は、出雲大社に復帰合併して、出雲大社の職員が出雲大社教の職員を兼ねています。




「出雲教」と出雲大社の関係

出雲教は第76代国造「北島脩孝(きたじまながのり)」が創設した教団ですが、1882年の「神官教導職分離令」において神職の布教活動が禁止されたため、千家家と同じように「出雲教」を創設して独立しています。

宮司は千家家が継承していることで一般的に出雲大社教がメジャーとなっていますが、信徒数は少ないものの出雲地方を中心に根強い信徒を抱え、現在も出雲教として存在しています。

教理は出雲大社教と同じく出雲信仰をもとにして活動している宗教団体です。

なお、ご存知でない方が大半だと思いますが、出雲教の総本社となるのが、出雲大社境内の東門から出たとことにある「北島国造館」です。

北島国造館の敷地内は一般参拝者も自由に立ち入ることができて、庭園や期間限定のお店などが出店したりします。

ぜひ!立ち寄ってご参拝ください。

千家国造館の場所(地図)

住所:島根県出雲市大社町杵築東宮内240

千家国造館へのアクセス(行き方)

千家国造館は神楽殿を向かい見て左隣になります。神楽殿は出雲大社の境内の西門から出てすぐのところに位置します。

出雲大社本殿から千家国造館へまでの所要時間・距離

  • 所要時間:徒歩約3分
  • 距離:約280m

※出雲大社の境内の案内図は当サイトの以下の別記事にてご案内しておりますのでソチラをご覧ください。

関連記事: 島根県・出雲大社の境内の詳細「案内図(地図・マップ)」(ダウンロード可能)

千家国造館のお問い合わせ先(電話番号・公式URL)

電話番号:0853-53-2003
出雲大社教のURL:izumooyashirokyo.or.jp/

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