出雲大社の隣地には、「千家国造館(せんげこくそうかん)」と門札がかかった煉瓦造りの長大な建物があっちゃぅ💋
門からパンツちら見え級に、わずかに内部がチラ見えちまぅ程度で外側からは内部がいっさい見えない。
本項では、当該、千家国造館でできる事や、なにをしている施設なのか?
‥について詳らかに紹介するものであ〜る♡
「千家国造館」の読み方
千家国造館:「せんげ こくそうかん」
【ピヨ🐣コメント】
くれぐれも、「せんけ くにつくりかん」や「せんげ こくぞうかん」とは読まないように注意💘
千家国造館には別名がある?
神職の間では、別名で「永職館(えいしょくかん)」とも呼ばれます。
【ピヨ🐣「国造」とは?】
本来「国造」は、”くにつくり”や””こくぞうと呼称されることが多いのですが、出雲地方では、国造を「国曹」とも書くようで、あくまでも「こくそう」と呼称しています。
千家国造家(千家国造館)では何ができるんや?
千家国造館の門には、大きな注連縄がかけられ、内部は門の間口からわずかに見える程度だが、これが出雲大社の宮司の住まいです。
千家氏の先祖は出雲氏で、かつて出雲に存在した出雲王国を支配した出雲国造家(いずもこくそうけ)の当主が素敵に暮らす屋敷になる。
出雲国造家は、天照大御神の第二子「天穂日命(あめのほひのみこと)」を祖とし、代々、出雲国造、出雲大社宮司、出雲大社教管長の職を行っている氏族です。
詳しくは崇神天皇の頃に成立し、天穂日命の11世代経た孫の「宇迦都久怒(うかつくぬ)」が初代の出雲国造と伝わる。
爾来、現在まで世襲制で国造家は続き、現在の国造は第84代「千家尊裕国造」で、2002年に国造に就任しています。
千家国麿と皇女の挙式が出雲大社で催された
ちなみに、千家尊裕国造の長男の「千家国麿(せんげ くにまろ)氏(現:出雲大社の権宮司)」が、「高円宮憲仁親王の第二女子(典子女王)」と2014年10月5日に結婚されたのが記憶にあたらしい。
このニュースは明るい話題として日本中が歓喜喝采した。
千家国造家の見どころ
斎火殿
斎火殿は「さいかでん」と読み、これは千家国造館でもっとも重要な場所であり、もっとも神聖な場所になります。
出雲大社内の神事の際、国造(宮司)はこの斎火殿に、こもって潔斎(けっさい)を行い穢れを祓います。
斎火殿には、国造が宮司の任期を終えるまで、絶対に絶やしてはならいとされる「神火」が灯されており、潔斎では、この火で調理した食事のみを食べます。
神火は、コンビニライターでカチッ!カチッ!あれ?なんでつかんねや?湿っとるんか?・・ボっ!!あぢっ!・・などとさせて点火したものではなく、古式を踏襲し「火きり臼」と「火きり杵」も用いて起こされた忌み火になる。
なお、この「火きり臼」と「火きり杵」は、国造家の祖先である「天穂日命(あめのほひのみこと)」が、熊野大社(島根県松江市八雲町熊野/出雲国一宮)の主祭神「櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」より授かったものであり、国造家の神器とも云われています。
万が一、国造に不幸などがあって代替わりする時は、代々受け継いできた「火きり臼」と「火きり杵」を持って、現在でも昼夜問わず、熊野大社へ赴いて「火継式」を行ったのちに代替わりできる仕来りになっているようです。
書院
1912年(明治45年)に大正天皇が出雲大社に参拝された折、足をお運びになられた部屋です。
大正天皇行幸のちも、代々の皇族が親臨したとのことです。
永職館
永職館とは、『子々孫々、永遠にその職に就いて出雲大社を守護して語り継いでいく』などの意味合いがあります。
これは1667年(寛文7年)に特別な思い入れてで付された名前であり、以降、現在にいたっても千家国造館は別名で「永職館(えいしょくかん)」とも呼ばれています。
「永職館」と付された経緯(理由)
「永職館」と付されたのは江戸時代中期となる1665年(寛文5年)まで遡ります。
この当時江戸幕府は「諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)」と呼ばれる法律を公布しています。この法律によって日本全国の神社の神主を総括管理しようとしたのです。
しかし、出雲大社は神話の時代から続く由緒正しき歴史があり、古式ながら創建以来よりの仕来りを重んじて、代々、これを踏襲してきた背景があります。
そこで幕府の意向に反論することになりますが、ここで幕府と出雲大社の間に入って仲立ちしたのが当時の天皇である「霊元天皇(れいげんてんのう)」です。
霊元天皇は綸旨(りんし/=天皇の命令書)をもってこのように告げられました。
「太古の昔から存在する出雲大社とそれに仕える神職一同は、大社を永遠に守護すべく、創建以来の仕来りを遵守し未来永劫 継承していくのが倣い。よって永遠にその職を継承すべし。」
この当時の将軍は3代将軍 徳川綱吉であり、綱吉公は朝廷に対して友好的であったこともあり、すんなりとこれが容認されます。
なお、この天皇のお告げ(綸旨)は別名で「永宣旨(ようせんじ)」と呼称し、いわゆる永代にわたって有効となる特権をもった命令書のことで、この命令書を出雲大社が受けたということは非常に大きな出来事でした。
このお言葉のありがたみと、身にしみるほどの重みを感じた当時の出雲国造以下、神職一同は、出雲国造家の住まい(出雲国造館)に「永職館」と付して、この時の天皇のお言葉と自らが背負った崇高な使命を永遠に継承していくことを誓うのです。
「出雲国造家」と「出雲国造」の歴史と由来
「出雲国造(いずもこくそう)」は、律令制度の一環で生み出された官職のことを指し、これは出雲国(現在の島根県東部)を支配した、世襲制の「地方官(国造)」です。
出雲国造は、該当の地方の支配(管理運営)と、その土地の祭祀(神事/祭典)のすべてを管理しました。
他に同じ島根県の松江市南部(意宇郡/おうぐん)の郡司(ぐんじ)も兼任し、出雲国造の地位とは当時では、天皇からも一目を置かれた高位の官職でした。
国造とは、どれだけの地位なの?「現在の地位で比較」
ちなみに”国造”を現在でわかりやすく説明すれば「市長」や「県知事」のことを指します。
そして、その氏族の長、つまり出雲国造家の長が、代々「出雲大社の祭祀」と「出雲国造の称号」を受け継いでいきます。
【補足】出雲国造の起源や歴史とその歩み
紀元前
出雲国造は、崇神天皇の頃から配置された官職になるも、王政時代から武家が統治する中世時代になると幕府が国政を掌握したため、旧来の「国造」という官職が意味をなさなくなり、やがて消滅の一途をたどる。
殊に、最後に残った国造は有力だった出雲国造のほか、「紀伊国造」、「阿蘇国造」のみと伝わる。
室町時代
室町時代になると、皇室が南北の2つに分裂してしまい、権力闘争が勃発。
当時の守護代が職務の平等な分担化をすることで両者を和解させました。(南北朝時代(1336年〜1392年))
この動きに付随して、出雲国造家内でも祭祀の方法などをめぐる争いが勃発し、およそ1340年頃を境として以降、「千家」「北島」に分かれて、それぞれが出雲国造を名乗るようになる。
この様相は19世紀の後半(幕末)まで続き、出雲大社の祭祀職務は分担され、「偶数月の祭典(神事)は北島家」「奇数月の祭典(神事)は千家」として執り行われていた。(神在月は北島家)
明治時代
明治時代になると、千家氏・北島氏は「男爵」として遇されていました。
しかし、出雲大社は神社本庁の傘下に置かれたため、千家氏は「出雲大社教(いずもおおやしろきょう)」、北島氏は「出雲教」として、それぞれの宗教法人を主宰して分裂する。
ほどなくして、出雲大社の宮司は千家氏が承継していくことで一つにまとまり、往古の出雲国造家の有り様に回帰した。
昭和時代
戦後は、神社は国家が管理せず、神社本庁(伊勢市)の所管となり、出雲大社は神社本庁包括に属する別表神社となっています。
千家氏は、宗教法人出雲大社教の宗祀として宮司を担い、現在に至っています。
出雲大社教と出雲教の違い
‥については下記ページを素敵に要チェック💘
千家国造館の場所(地図)
住所:島根県出雲市大社町杵築東宮内240
千家国造館へのアクセス
千家国造館の場所は、出雲大社の境内にある「神楽殿」を南にでて直ぐ右にあります。
神楽殿は出雲大社の境内の西門から出てすぐ。
出雲大社本殿から千家国造館へまでの所要時間・距離
- 所要時間:徒歩約05分
- 距離:約400m
千家国造館のINFO
所在地:島根県出雲市大社町杵築東240
公式URL:https://izumooyashiro.or.jp/precinct/keidai-index/kokusoukan(出雲大社)


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