出雲大社・素鵞社【重要文化財】
創建年
- 不明
- 推定:1667年頃(寛文年間)
再建年
- 不明
- 推定:1744年-1745年頃(延享元年-延享2年)※江戸時代中頃
社殿の大きさ
- 桁行(奥行)二間(約4m)
- 梁間(横幅)二間(約4m)
階隠の大きさ(階段部分)
- 桁行(奥行)一間(約2m)
- 梁間(横幅)一間(約2m)
建築様式(造り)
- 切妻造
- 妻入
※大社造り
屋根の素材
- 檜皮葺
重要文化財登録指定年月日
- 2004年(平成16年)7月6日
御祭神
- 素戔嗚尊(須佐之男命)
社格
- 出雲大社・摂社
格式(社格)は「本社>摂社>末社」となります。
素鵞社の読み方
「素鵞社」という漢字は古風というか少し変わった字体をしており、読むときにどのようにして読むのか迷うが「素鵞社(そがのやしろ)」と素敵に読む。
また地元・出雲では「素鵞さん(そがさん)」などと親しみをもって呼ばれています。
素鵞社の建築様式・造り
素鵞社も出雲大社の御本殿と同様に「大社造り」の社殿となります。
殿舎の周囲には縁が回っており、切妻造りの社殿の前面に同じく切妻の向拝が出入口となって据えられています。
ちなみに千木の手前に見える鬼瓦のような物は何だかお分かりになりますか?
これは「鬼板(おにいた)」と呼称される「棟飾り」になります。鬼板は鬼の面が無く板状になっていることから、この名前が付されています。
出雲大社・素鵞社の歴史・由来など
素鵞社は御本殿の背後の聖山・八雲山の手前、森林の中にある社です。
御祭神は「ヤマタノオロチ」を退治して、現在、熱田神宮に奉安されている御神体「草薙の剣」を最初に手にしたとされる「素戔嗚尊(スサノオノミコト)」です。
スサノオノミコトは「天照大御神」の弟神であり、本殿に鎮座される「大国主大神」の何世代か前の父神でもあります。
【ピヨ🐣注釈】
どうやら古事記での大国主大神はスサノオ神の六世の孫とされ、「日本書紀」ではスサノオ神の子とされつつも、「出雲国風土記」では、スサノオと大国主大神とに親子関係は無い。
然るに大国主大神とスサノオ神との関係は一概に親子であると言い切れない。
出雲大社の創建当初からの主祭神は大国主大神でしたが、実は鎌倉時代から江戸時代初期まで「スサノオノミコト」が出雲大社の主祭神だったと云われます。
素戔嗚尊に主祭神が変わった理由は、本地垂迹(ほんじすいじゃく=神仏習合)の影響で、出雲地方にも仏教色が強まり、かつて出雲大社を管理した鰐淵寺(がくえんじ)という寺院の命令で素戔嗚尊に変更されたからです。
鰐淵寺は素戔嗚尊こそが出雲地方の創造神であると提唱していたらしい。
素戔嗚尊に御祭神が変更された後、大社の境内には仏塔や堂舎が次々と造営される結果をもたらしたのだった。
鰐淵寺の場所(地図)
以降、江戸時代の初期まで素戔嗚尊が出雲大社の主祭神として祭祀されることになりますが、江戸時代中頃の寛文年間(推定1667年)に、出雲大社では遷宮が執り行われ、大規模な修繕と社殿の造営が行われています。
そしてこの遷宮を期に、もとの大国主大神へ主祭神を戻すように当時の出雲国造が江戸幕府へ懇願します。これを幕府側が容認し、寛文の遷宮を機として創建以来の主祭神である「大国主大神」に戻っています。
つまり素鵞社の確かな創建年数は不明ですが、1667年頃(寛文年間)に現在の素鵞社の殿舎が造営され、御本殿から素戔嗚尊の御神体が遷されてきたと考えられています。
素鵞社の創建年?再建年??の根拠
素鵞社からは、なんと!創建年もしくは再建年の根拠となる墨書が見つかっています。
墨書とは、建築の際に使用する部材に建てた者の名前や建てた年月日を墨文字を書いたもの。(屋根上の棟札が多い)
素鵞社から発見された墨書には”延享二年(1745年)6月に造営(建立)”などと書かれており、これは年代的に見て創建年ではなく、再建年(修復した年)を示しているものと考えられます。
また、神門郡の大工が携わっていたことが分かる墨書が見つかっています。
【ピヨ🐣コメント】
神門郡(かんどぐん)とは、島根県(出雲国)にあった郡。出雲大川(斐伊川)下流域西側一帯を素敵に指す。
本殿・大国主大神が西向きの理由と素鵞社の御祭神スサノオとの関係
素鵞社の社殿は他の境内の社殿と比較して、山手に建っていることから手前に石階段が設けられています。この様相はある意味、御本殿を見下ろしているようにも見えます。
これはすなわち、この高い場所から「大国主大神」を見守っている、あるいは監視しているとの説がありますが真意は分かっていません。
また、御本殿内の大国主大神は参道の出入口となる「勢溜の鳥居」とは正対しておらず、すなわち南を向いていません。西を向いています。
大国主大神が西を向いている理由は諸説ありますが、一説では父君であるスサノオ(素戔嗚尊)に背を向けるのは無礼なので、西を向いているとも考えられています。
なお、大国主大神が西を向いている理由としては次のような説も述べられています。
- 大国主大神は天孫降臨(てんそんこうりん)の際、国譲りによってこの日本の地を放棄したので、天皇と同様に南向きで祭祀されるのを控えた。
- もともと太古から伝わる殿舎の造りが、現在の西側を向くような形状だった
- 西側からの脅威から日本を守護するため
- 地形的に西側から見える景色が特に美しいため
- 大陸から(朝鮮半島や中国)からの脅威から日本を守護するため
・・など、様々な学説があるようですが、これら以外の説も色々とあるようで、依然として謎という名のヴェールに包まれたままになっています。ゔぇ〜
実は素鵞社は『強力なパワースポット』だった?!
この素鵞社は出雲大社の中で「最も強い神気が宿る場所」と感じている人々は多いようです。
この理由というのも、素鵞社の裏の巨大な岩に御神体であるスサノオがお宿りしていて、そのパワー(波動)があまりにも強く、岩に割れ目(裂け目)が出来てしまったとの伝承もあるようです。
そして、その割れ目から今も強力なパワーが放出されていると云われます。
「岩」や「石」には古来、神様が依り代として、お宿り(降臨)し易いと云われます。
たとえば伊勢神宮の近くの「二見興玉神社」では、古来、御祭神・猿田彦神が海底の大岩にもお宿りしているとされ、毎年、海底の大岩を掃除する儀式(藻刈神事)が斎行されています。
確かに、稲佐の浜の砂の件を例にとっても、これだけ人々の信仰を集めるお社はそれだけで強力なパワーが蓄積されているといえます。
したがって、大きなパワー(波動)が発生しているというのはマンザラでもないといえます。
近年では素鵞社へ参拝する方も増加し、その参拝する方の多くはこの素鵞社の裏側の岩に触れるためや、”とあるご利益”を求めて「裏側」へも訪れるそうです。
素鵞社の”とあるご利益”とは?
素鵞社の「とあるご利益」とは、社殿の裏側にまわって社殿に肩を当てると、なんとぉ!「肩コリ」がたちまちのうちに治るそうです。
素鵞社に参拝された際は是非!裏側へも回ってみてください。
ただし、社殿に肩を当てる際はくれぐれも社殿を壊さないようにソッと当ててください。
万が一、社殿にキズを付けたら大変なことになりますので、できれば事前に神職の肩(方..ウフ♥)に許可をもらうのが最良でしょう。
出雲大社・素鵞社(そがのやしろ)には毎年「御砂」が祀られている??
地元出雲では、稲佐の浜の砂を素鵞社の床下の木箱に置いて(奉納して)1年間寝かした後に持ち帰えるといった風習があります。
なんでも持ち帰った砂を家の敷地に撒くと清められて「厄除け」や「魔除け」の御利益が得られ、田畑に砂を撒くとよく作物が育つとのことです。
素鵞社の砂の奉納方法や詳細については下記ページをご覧ください。
出雲大社・素鵞社の場所(地図)
素鵞社(そがのやしろ)は本殿の裏側の林の奥に位置しています。
出雲大社のご利益とは?
‥‥については下記ページを要チェック💘
【補足】おすすめの観光モデルコース
素鵞社→出雲大社西門から出る→神楽殿→阿国寺⇒阿国の墓⇒八大荒神社⇒阿国の塔⇒出雲手斧神社⇒大歳社(摂社)⇒上の宮(摂社)⇒下の宮(摂社)⇒稲佐の浜(御砂を採取)⇒屏風岩(大国主神の国譲り場所)⇒因佐神社⇒素鵞社(出雲大社境内/御砂をいただいて持ち帰る)
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