島根県にある有名な「出雲大社」に三重塔があったと言われると皆さんはどう思いますか?
ほとんどの人が「出雲大社は神道で三重塔は仏教の建物なのでおかしい」と思うのではないでしょうか。
実は、本当に出雲大社にも三重塔が実在したのです。
しかも!その三重塔が、現在もなお、現存しているとするのであれば・・見てみたいとは思いませんか?
出雲大社に三重塔が建立された理由
いま皆さんに「信仰する宗教は何ですか?」とお聞きすれば、ほとんどの方が「何も信仰していない。(無宗教)」と答えると思います。
大半の方はお葬式を仏教式で行ったりしていて、大変うすーく広―く言うと日本人の大半の人が仏教徒になるのです。
ですが、昔々の日本の宗教は「神道」でした。
「神道」とは何かをザックリと説明しますと、山の神様・海の神様・土地の神様といった「自然信仰」が基本です。
日本人は昔から自然を大切にしていたのですね。
そこへ飛鳥時代の552年に百済(いまの韓国)から仏教が日本に伝えられてきます。
この時に仏教を早くたくさん広めようとしたためか「仏教の仏様も神道の神様も同じですよ」という考えとともに仏教が広がりました。
元々日本人には「八百万(やおよろず=たくさん)の神さま」という考えがあったからか「仏様も神様の一種なんだ」と仏教をあっさりと受け入れました。
ここから仏像と神様を一緒にお祭りする「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」が始まります。
そして出雲大社も仏様を一緒に祀るようになったのです。
出雲大社の三重塔の倒壊
三重塔は釈迦(しゃか/仏教を開いた人物)の「舎利(しゃり=遺骨)」を祀る建物ですので、仏教を受け入れた出雲大社にも当然建てられました。
その他にも出雲大社の境内にたくさんの仏教建築が建てられました。また、太古からの御祭神であった「大国主大神」も鎌倉時代に「素戔嗚尊(スサノオノミコト)」に変更されています。
これは当時、素戔嗚尊が仏教の牛頭天王(ごずてんのう)と習合していた背景や「本来の日本国土の神は素戔嗚尊である」という思想が生まれ、出雲大社を管理した「鰐淵寺(がくえんじ)」の働きかけによって素戔嗚尊に変更されています。
境内には三重塔以外にも、大日堂や弁天堂などの堂舎が存在し、これらの堂舎は銅鳥居の奥の瑞垣で囲まれた内側に建てられていたようです。挙げ句の果てには、ちょっと想像がつきにくいですが、社殿内にて読経(お経を唱える)が行われるような有り様だったようです。
しかし出雲大社は由緒ある歴史を持つ大社であり、特に古神道を重んじるお社でもあるので、「やはり仏教は仏教、神道は神道。出雲大社は神道に戻したほうが良い」という考えが出てきます。
そこで1667年(寛文七年)に行われた「遷宮(せんぐう/社殿を建て直す)」のときに、江戸幕府に特別に許可をもらって敷地内の仏教の建物は全部取り壊す計画になったのです。
三重塔もその内の1つでした。また、この時に御祭神も従来の大国主大神に戻されています。
出雲大社の遷宮と「石原山・帝釈寺(日光院)」
いざ、遷宮の準備を進めようとするのですが、肝心なことに気がつきます。
なんと!遷宮(社殿を建て直す)を行うための用材(木材)が足りないことに気づいたのです。
そこで急ぎ、動員できる者は動員して、日本全国へ遷宮の用材を探しに向かいました。
しばらくたって、ようやく見つかったのは「但馬国妙見山(いまの兵庫県養父市)」にある「石原山・帝釈寺(日光院/いまの但馬妙見日光院)」の霊山にある「ご神木」でした。
出雲大社と不思議な縁で結ばれた「石原山・帝釈寺(日光院)」
普通ならご神木を切り倒すなんてことは考えられないことです。
しかし、ここで何とも摩訶不思議なできごとが起こります。
なんと!偶然にもこの時、日光院では三重塔を建てる計画があったそうなのです。
もうお分かりかと思われますが、ここでトレード(交換)の話が持ち上がります。
つまり、「取り壊す予定の三重塔をお譲りいただけるのであれば・・」ということです。
出雲大社には願ってもないことでしたので快くこれを承諾します。
こうして「御神木」と「三重塔」のトレードは成立し、いよいよ御神木を切り落とすことになったのです。
トレードを終えた後、三重塔を出雲大社から譲り受けて管理していた「石原山・帝釈寺(日光院)」にさらなる試練の時が訪れます。
なんとか移築できた三重塔ですが、明治時代に入って明治政府からとんでもない命令が発布(公布)されます。
これが世に言う「神仏分離(しんぶつぶんり=神道と仏教をしっかり区別すること)」の法律です。
この法律の成立により、今度は「石原山・帝釈寺(日光院)」が、現在の土地を離れることになってしまうのです。
そして、そのあとには神社が残りました。
「名草神社」の誕生
そのあとに残った神社と言うのが、現在の「名草神社(なぐさじんじゃ)」という神社です。
住所は「兵庫県 養父市 八鹿町 石原1755-6」となります。
しかし、三重塔の管理が神社になってしまったので、塔の中に「仏舎利(ぶっしゃり=釈迦の遺骨)」を祀るわけにもいかなくなり、いまは何も祀ることのない建築物として三重塔はひっそりと存在しています。
兵庫県 養父市・名草神社の三重塔【重要文化財】
創建年
- 1527年(大永7年)※室町時代
移築年
- 1665年(寛文5年)※江戸時代
再建年(大修繕)
- 1987年(昭和62年)
重要文化財指定年月日
- 1904年(明治37年)2月18日
大きさ
- 四辺:約5.5m
- 高さ:約24m
建築様式
- 三重供養塔
屋根造り
- こけら葺
建立場所(住所)
- 兵庫県養父市八鹿町石原1755-6
発願者
- 尼子経久
名草神社の三重塔の特徴
ちなみに、現在の三重塔の大きさは、「三間三層で高さ23.9m」、「1辺の長さは約5.5m」です。
特徴は朱色に「緑色の窓(連子窓)」がアクセントになっており、材質は「こけら葺(薄い杉の板を重ねた造り)」です。
三層目の四隅の屋根の裏には、猿が一匹ずつ飾られていて「見ざる」「言わざる」「聞かざる」そして「思わざる」という、猿くんがちょこんと座っています。
この、猿くんの姿が特徴的で、日光東照宮の三猿を彷彿させるような、頬に手を当てているような可愛い4匹の猿くんたちです。
引用先:http://www.kobe-np.co.jp/
創建は出雲大社に建てられた「1527年(大永7年/室町時代)」になりますが、日光院へ移されたのが「1665年(寛文5年/江戸時代)」です。
そして現在の三重塔は、1984年(昭和59年)2月に降った大雪で、二層目と一層目の屋根が崩れてしまったため、1987年(昭和62年)10月に大修理で復元された姿になります。
【補足】困難を極めた三重塔の移築作業
トレードが無事に成立したものの、当時はクレーン車もトラックも無いわけですから三重塔の移築は大変な作業です。
三重塔の木材一つ一つをバラバラにして島根県の「宇龍港(うりゅうこう)」まで運び、そこから兵庫県の津居山港までは船で運べるものの、今度は日光院のある妙見山まで3500人の手で木材を運んだそうです。

終わりに・・
宗教としての役割を無くしてしまった三重塔ですが、鮮やかな朱色の姿で山の中に建つ姿はさすが国の重要文化財に指定されるだけの事はある堂々とした姿です。
日本の神道と仏教の歴史を思いながら、ぜひ参拝しに出掛けてみて下さいね。
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