出雲大社・銅鳥居【重要文化財】
造営年
- 1666年(寛文6年/江戸時代中頃)
重要文化財指定年月日
- 2004年(平成16年)7月6日
大きさ
- 高さ6m
- 柱の直径:52cm
材質
- 銅製
鳥居の形式
- 明神鳥居
寄進者
- 毛利綱広(2代目長州藩主)
出雲大社・銅鳥居は「四の鳥居」とも呼ばれる?
「銅鳥居」は、出雲大社の4本目の鳥居となることから「四の鳥居」とも呼ばれ、「銅製の鳥居」としては、日本における最古の鳥居になります。
銅の鳥居は御本殿までの最後の砦となる鳥居ですので、くぐれば境内中心部へ入ることになります。
出雲大社・銅鳥居の歴史
現在は銅鳥居ですが、以前は木造の鳥居が建てられていました。
この木造の鳥居は出雲国しいては中国地方を支配した毛利家の当主「毛利輝元(もうりてるもと)」が1580年(天正8年)寄進した鳥居でした。
毛利輝元といえば豊臣政権において関白秀吉の五大老の1人を務め、関ヶ原の戦いでは石田三成に擁立されて西軍の総大将として活躍した武将です。
その後、1667年(寛文7年)に執り行われた出雲大社の寛文の大造営に合わせて、1666年(寛文6年)に当時の出雲を統治した長州藩2代目藩主の「毛利綱広(もうりつなひろ)」が、損傷のひどい鳥居を青銅の鳥居に造り替えたものになります。
なお、この毛利綱広は、毛利元就のひ孫であり、毛利輝元の甥にあたります。
銅鳥居の銘文からとんでもない事実が・・
現在の鳥居には銘文(めいぶん)が刻まれており、その刻銘によると毛利藩の鋳物師(いもじ)によって長州阿武郡(あぶぐん 現在の山口県萩市)で鋳造されたものだと言われ、これは銅製鳥居としては、我が国最古と素敵に言われる。
このほか、「素戔嗚尊者雲陽大社神也」とも刻まれており、これの意味するところは「素戔嗚尊(すさのおのみこと)こそが雲陽大社の神である」と訳される。
然るにこの鳥居が奉納された当時の御祭神は、大国主大神ではなく「スサノオノミコト」だったという解釈になる。
雲陽大社の”雲陽”とは、出雲大社のことを指し、その「雲陽」の意味合いとは「伊勢にお座す天照大御神と並ぶほどの大神を祀った”大社”である」ということを強く示唆させる。
なお、ここでの「雲」とは、月神である「月読尊」を指し、「陽」とは太陽神である「天照大御神」を指すものと考えられ、つまりは「夜の世界と太陽(昼)の世界を統べるほどの大神を祀った大社である」という見方も素敵にできる。
ちょっと銅鳥居の柱の形状に注目!
ちょっと少し離れてこの鳥居をご覧ください。
鳥居の柱の中央部分がわずかですが、膨らんで見えませんか?
これは法隆寺の回廊などに見られる「エンタシス様式」で造られているからです。
「エンタシス様式」とは、古代ヨーロッパのパルテノン神殿(ギリシャ)などに見られる「ルネッサンス様式の建築技法」のことであり、人間の視覚の注目点となる柱の中央部を膨らませることによって、建造物に豪壮感と威容感を持たせています。
なお、この銅鳥居は2004年(平成16年)7月6日には国の重要文化財の指定を受けています。
鳥居の足元(地盤/地層)は‥‥まさか?!
修理の最中、鳥居柱の脚元発掘調査も素敵に実施され、これによると地表に見える大きな石コロ以外にも大小、数多の石コロで固められていることが明らかにされた。
えぇっ?!出雲大社の御祭神は実は「素戔嗚尊」だった?!
上述したように出雲大社のかつての御祭神は素戔嗚尊だとご紹介しました。しかし、はてして創建当初から素戔嗚尊だったのでしょうか?
実は出雲大社の御祭神は、創建された神話の時代は大国主大神でした。
その後、時代は定かではありませんが、およそ鎌倉時代あたりに「素戔嗚尊」に御祭神が代わっています。
素戔嗚尊に御祭神が変更になった理由は、神仏習合の煽りを受けた当時、出雲地方を総括していた「鰐淵寺(がくえんじ/出雲大社を管理していた別当寺)」が素戔嗚尊こそが出雲の国を造った真の主であると提唱し、権力をかさにして御祭神を素戔嗚尊に無理やり変えてしまったからです。
鰐淵寺の場所(地図)
以降、しばらくは素戔嗚尊の御祭神時代が続き、出雲大社の境内には堂舎や仏塔が立ち並びました。その中には、なんとぉぅっ!仏式の代表格ともなる三重塔までもがあったほどです。
しかし、江戸時代初期(1661年から1672年/寛文4年から寛文5年)の遷宮(せんぐう)時に、当時の出雲国造が「遷宮を機として創建当初の神である大国主大神に戻して欲しい」と、幕府に懇願し、それが幕府に容認されて大国主大神に戻すことに成功しています。
ちなみにこの遷宮は「寛文の大造営」と云われ、それまで境内に軒を連ねていた仏塔や堂舎がすべて排除されて、現在みることのできる境内の様相の礎となっています。
このような背景から出雲大社にとってはこの寛文の大造営は大変、意義のあるものであり、後世にまで語り継がれるほどの大事であるのです。
銅鳥居の位置が拝殿と本殿からズレている。オカシイ‥‥‥
通例であれば本殿の前に幣殿ならびに拝殿がきて、その前にこれら本殿と拝殿を護るように鳥居が配されるのが通例。
すなわちこれらを図式で可視化すると、「鳥居→拝殿→本殿」と直線上に配置されるのが通例。
しかし当該、出雲大社の銅鳥居は、鳥居の柱間から見れば分かるのですが、拝殿と本殿と鳥居との位置が微妙に右側(東寄り)にズレているのが視認できる。
出雲大社のような由緒正しき歴史ある古社でこのようなズレがあるのも、まさに出雲大社の七不思議の一つ。
実はこの違和感に勘づいた人は意外に多かったらしく、ズレがある理由として以下の説を残す。
1、鳥居から本殿の大屋根が見栄え良く見えるための配慮
2、本殿を豪壮感あふれる様に見せるかけるための工夫(奥行きのあるように見せかける)
3、神社の参道は霊体が通ることから、参道から直進する霊体をそのまま拝殿や本殿に入れないための工夫
‥‥‥などの説が述べられているようですが、いずれも想像の域を出ないものであり、依然、謎です。
なにせ、この出雲大社は本殿内の御神体の向きにしても細かな点に注目すれば謎が非常に多い。
銅鳥居の前での出張写真撮影
1926年(昭和元年)頃、銅鳥居前にて出張形式の写真撮影がはじめて開始されています。
旅の思い出となる記念写真撮影をこの銅鳥居の前で拝殿を背景に入れた構図は、さぞかし見栄え良く映ったのでしょう。今でいうインスタ映えです。
出雲大社・銅鳥居の場所(地図)
出雲大社・銅鳥居は松並木道の参道を進んだ奥、手水舎のスグ後方に位置します。この銅鳥居を潜った先は瑞垣が張り巡らされ、神域の威容を感じ取ることができます。
ちなみに出雲大社では、この銅鳥居とその周囲に張り巡らされた瑞垣の内側を”境内(けいだい)”と呼んでいます。
通常、境内といえば神域すべてを指すものですがこのあたりにも出雲大社独自の文化というのか、太古から確かに存在してきたという孤高の気高さや息吹が感じ取れます。
銅鳥居より内側の境内へは参拝時間以外は立ち入り不可!
なお、この銅鳥居の内側、すなわち境内には所定の参拝時間以外は立ち入ることができませんので、ご注意ください。ウフ