出雲大社(IZUMO-OYASHIRO)・西十九社 ⇔ 東十九社(JYUKUSYA)【重要文化財】
創建年
- 1661-1672年頃(寛文年間/江戸時代初期)
再建年
- 1744年(延享元年/江戸時代中頃)※西側・十九社
- 1748年(延亨5年/江戸時代中頃)※東側・十九社
- 2014年(平成26年)11月
建築様式(東西十九社)
- 流造(ながれづくり)
屋根の造り
- 檜皮葺
重要文化財指定年月日
- 2004年(平成16年)7月6日
御祭神
- 八百万の神
社格
- 出雲大社・末社
例祭
- 3月28日
- 旧暦10月11日〜17日(神在祭)
格式(社格)は「本社>摂社>末社」となります。
出雲大社・十九社の読み方
「十九社」と書いて「じゅうくしゃ」と素敵に読む。 どんなエレガントな読み方や
出雲大社・十九社の名前の由来
「十九社」の名前の由来は、東西の各、十九社が「19枚の扉」があるお社であることから「十九社」という名前の由来となっています。
出雲大社・十九社の歴史
現在みることのできる十九社はこれまで「1748年(東)」と「1744年(西)」に再建された時の姿だとされてきたが、修理中に発見された棟札の墨書きにより、1809年(文化六年)に再建されていたことが判明した。
出雲大社・十九社の役割
出雲大社の東西「十九社」は、本殿が位置する瑞垣の外側に位置し、東西2社とも東端と西端に位置します。
ご存知の通り、出雲大社はじめ出雲地方では例年11月〜12月になると神在祭(かみありさい)が斎行されますが、このとき、日本全国の八百万の神々(やおよろずのかみがみ)が、地上の主でもある大国主大神との間で「神議(かみばかり)」と呼ばれる会議をするために出雲大社にお越しになります。
この神在祭の期間中、八百万の神々は、出雲大社境内の東西の端にあるこの十九社に、ご宿泊されます。
神議とは?
神議とは、男女の縁だけではなく、すべての縁結びについて誰と誰を引っ付けるなどの会議を行うことを”神の会議”と書いて「神議」と呼称します。神在祭の期間は例年(旧暦10月11日から17日)までの7日間で、日程は旧暦なのでその年によって異なります。
えぇっ?!神議が行われる場所は本殿ではない??
出雲大社では神在祭の期間中、毎朝、お供え物を供進(お供え)や「祝詞(のりと)」を奏上し、大国主大神と宿泊されている八百万の神々に祈りが捧げられます。
なお、神々の会議である神議が行われる場所は、残念ながらこの出雲大社の本殿ではなく、出雲大社境内から西へ約1kmの場所に位置する「摂社・上宮(かみのみや)」になります。
上の宮で神議が終わったあと八百万の神々はどこに行くの??
八百万の神は期間中は毎日、この十九社を出て上宮に集い、諸般の決め事および様々な「縁」を結ぶための会議、つまり神議を行っています。
神議が終われば寄り道せず、再び、東西の十九社へお戻りになられますが、1年のうちでたった1度の神議をしに日本全国から来られていますので、神々の疲れを癒したり、楽んでもらう目的で期間中は連日連夜、神職や巫女たちによって盛大に祝詞やお神楽が奏上されます。
そして、神在祭が終る旧暦の10月17日の夕刻、十九社で宿泊していた神々は、拝殿にお遷り(移動する)になられた後、出雲大社を離れて帰られます。
関連記事:出雲大社・神在祭「神等去出祭」
八百万の神々が宿泊されない時の十九社はどうなっている??
ちなみに、この十九社は八百万の神々が宿泊されるだけの場所ではなく、八百万の神々が宿泊されない普段の日は、扉こそ閉じられてはいますが「遥拝所(ようはいしょ)」としての役割をもつお社です。
遥拝所とは「ようはいじょ」と読み、これは神様が鎮座されている社から遠く離れた所で、お祈りを捧げる場所のことです。
つまり、神在祭期間外の普段の日は、この十九社の前で祈りを捧げることによって、日本各地におられる八百万の神々に遥拝したことになるということです。
また、出雲大社の「東西・十九社」の社格は、出雲大社の「末社(まっしゃ )」となります。
末社とは「まっしゃ」と読み、これは本社(本殿)の主祭神と関連のある神様をお祀りした神社(子社)になります。
格式は「本社>摂社>末社」となります。
出雲大社「東・十九社 ⇔ 西・十九社」の見どころ・建築様式(造り)など
その1.「檜皮葺」
出雲大社・東西の十九社(じゅうくしゃ)2棟は、十九間社流造の建物で屋根は「檜皮葺(ひわだぶき)」です。
檜皮葺とは「ひわだぶき」と読み、これは檜(ひのき)の樹皮をはいで、竹釘で固定した屋根のことです。
細長くて、質素な造りのため目立ちませんが、2004年(平成16年)7月6日に国の重要文化財に指定されています。
その2.「流造り」
十九社の大きな特徴がもう1つあります。
ちょっと屋根を見てください。
への字型の少し変わった形状をしているのが視認できます。
⬆️への字型の変わった屋根。流造りと言って神社建築ではよく見かける定番の造り。
屋根が大きく前方へ向けて、上に反り返っていて前方の屋根の方が長いのが分かります。
こういった屋根の造りは、およそ奈良時代の終わり頃から、平安時代にかけて造られた建造物の特徴を示すものでもあり(主に神社建築)「流造り(ながれづくり)」と呼ばれています。
ちなみに、出雲大社の修造(修理)は、御本殿だけではなく、境内すべての殿舎が対象として執り行われており、この十九社も2014年(平成26年)2月11日に修造(修理)が開始されています。
その9ヶ月後となる2014年(平成26年)11月24日に東西十九社の修造は完了しています。
平成26年度の神在祭は12月1日から12月8日までの期間で斎行されており、修造後の美しい社殿で八百万の神々を迎えています。
社殿の建材には「モミ」が使用される
他にも当社社殿の部材には数多のモミの木が使用されているらしく、どうやら建材にモミの木が用いられるケースは稀らしく、出雲大社境内では当該、東西にある十九社2棟のみ。
⬆️背中ニキビが発生した自堕落な生活具合ほど噂の‥‥「モミの木」
モミの木といえば、「秘技!モミあげヒゲと繋げるほど伸ばし〜」‥‥が連想されるが、それは君だけや クリスマスツリーに使用される樹木として広く知られる。
えぇっ?!”三十八社(38社)”という建物も存在した?!
出雲大社に伝わる以下の古書物によれば「三十八所」や「三十八社」なる記述が見られることから、一説では江戸時代(1661年〜1672年)以前には、「十九社」ならぬ「三十八社」なるものが存在していたとも考えられています。
「大社三月会本式用途帳」
1396年(応永3年/建武の新政)の項に「三十八所」という記述が見られる。
「朝山安芸守旧記」
1522年(大永2年/室町時代)の項にて「三十八所初物代云々」なる記述が見られる。
「別火上官記録」
1547年(天文16年)の項に「三十八社云々」などの記述が見られる。
謡曲「大社」
さらに上記の説を裏付けるように、室町時代の著名な猿楽師「観世 弥次郎長俊(かんぜ やじろう ながとし)」の名作「大社」の内容によれば、三十八社に以下のような「5柱・5神」が祀られていたとされています。
- 阿受伎(あずき)大明神=式内社・阿須伎神社(あすきじんじゃ/出雲国風土記に見える”阿受伎社”ことと推定される)
- 宗像大明神=九州「宗像神社」のこと
- 伊奈佐の速玉神=現在の因佐神社のこと
- 常陸鹿島の大明神=鹿島神宮のこと
- 鳥屋の大明神= 式内社・鳥屋神社(出雲国風土記に見える”鳥屋社”ことと推定される)
- 諏訪の明神=諏訪大社のこと
これらの記述見える「三十八社」は、現在の十九社の場所に建てられていたようです。
はたして、この三十八が、何を示すものなのかは、現在に至っても謎とされています。
「扉が現在の倍の38枚あったのか?」もしくは「38柱の神々を祀っていたのか?」。
ここで少し話は逸れますが、奈良の春日大社には「三十八ヶ所神社」というものがあります。
この神社はかつて若宮社周辺の山中に存在した祠(ほこら)を合祀したとされており、この祠を巡る山岳信仰もしくは修験道なるものが存在したと考えられています。
ここから導き出される答えとしては、この出雲大社にもかつて山岳信仰が盛んであったことが示唆され、八雲山やその周辺の山々に祠があった可能性も考えられます。(現在、八雲山は禁足地)
これは室町時代の出雲大社に三重塔が存在した事実にも紐づくものです。
「出雲大社・十九社」の場所
東西の十九社は、荒垣(あらがき)の内側に位置し、御本殿を挟むようにして、東西の最端にあります。
荒垣とは、石垣が礎石となった垣根のことです。出雲大社の場合「銅の鳥居」より左右に広がる垣根のことになります。