出雲大社 上の宮(上宮/仮宮)【島根県有形文化財】
創建年
- 不明
再建年
- 御本殿
1744年(延享元年)
2015年(平成27年)1月から10月 - 拝殿
1744年(延享元年)
2015年(平成27年)1月から10月 - 随神門
1744年(延享元年)
2015年(平成27年)1月から10月
建築様式(造り)
- 拝殿
切妻造
妻入
屋根の造り:檜皮葺 - 御本殿
切妻造
平入
屋根の造り:檜皮葺
御祭神
須佐之男命
八百萬神
社格
出雲大社・境外摂社
島根県有形文化財登録指定年月日
2010年(平成22年)4月16日
例祭日
1月3日
5月14日
旧暦10月11日から17日
格式(社格)は「本社>摂社>末社」となります。
「上の宮」読み方
上の宮は「かみのみや」と読みます。
「上の宮」の別名
地元では古くから「仮の宮」と呼称され、上の宮が建つ土地の地名である”仮の宮”の由来にもなっています。
出雲大社・上の宮の境内案内図
出雲大社の上の宮の境内には、御本殿・拝殿と「随神門」があります。
随神門を通過して奥に拝殿があり、さらにその奥に御本殿があります。
写真で見ると境内が小さく見えますが、思った以上に広いです。
建築様式(造り)
拝殿
拝殿は切妻造りに妻入りの簡素な素木造りの殿舎で、軒下は疎ら垂木、入口は引き戸、両側壁面は吊上げ式の蔀戸(しとみど)が据えられ、組物は拝殿を想定させる簡素な船肘木(ふなひじき)で建てられています。
屋根は出雲大社・御本殿と同様にヒノキ材で葺かれた檜皮葺(ひわだぶき)、棟の両側には御本殿と同じ鬼板が据えられています。
殿舎の周囲は縁が回り、田舎のおばあちゃん家を彷彿とさせます。
御本殿
屋根は手前の拝殿や出雲大社・御本殿と同じく檜皮葺(ひわだぶき)、さらに棟の両はしに鬼板(おにいた/=鬼瓦)が据えられているのも御本殿と同じです。
しかし屋根上にはなぜか、千木や勝男木(かつおぎ/鰹木)が据えられておらず坊主になっています。
組物は平三斗(ひらみつど)、殿舎出入口左右に格子状の蔀戸が配され、周囲を高欄(こうらん)付きの縁が取り巻いています。
殿舎の正面部は江戸時代風の框扉が見え、左右に格子戸が据えられ、御本殿とは異なり、平入りになっています。
屋根は切妻造りに、地垂木と飛燕垂木から成る二軒繁垂木(ふたのきしげたるき)で組まれ、その下に頭貫や軒桁を据える様式は大社造りの典型。
しかし、神社の代表格とも言える出雲大社の重要な役割を持つ摂社ながら、どこか仏教色の強さを感じる殿舎の造りです。
なお、出雲大社の境内の社殿群はほぼすべて彩色を持たない質素な白木造りですが、これは仏教伝来以前の社殿の様式であり、古神道の代名詞ともいえる出雲大社ならでわの造りともいえます。
現在見ることのできる上宮は、延享期(江戸時代中期)の頃に再建された時の姿です。
神社建築にご興味のある方は是非!参拝してから間近で見学してみてください。
随神門
随神門とは、この上の宮だけにある特殊な門ではなく、日本全国の神社でみかけることのできる門です。
たいていの場合、随神門の中には「随神」と呼ばれる弓矢を持った人形が安置されており、邪気が入らないように門番の役割があります。
お寺でいう仁王さん(仁王像)の神社バージョンと捉えることができます。
出雲大社・上の宮の歴史
寄木の造営
1110年(天仁三年)7月4日、出雲大社西方約1キロの稲佐の浜辺に長さ10丈(約30メートル余)もの巨木が100本近く漂着したらしい。
また、同じ頃、因幡の国(鳥取県東部)の上宮近くの海辺にも長さ15丈(約45メートル)、太さ1丈5尺(約4.5メートル)もの巨木が1本が漂着した。
因幡の村人たちが巨木を切ろうとした折、大蛇が巻きついていたらしく、逃げ帰った村人は全員に病におかされたとな。
その後、村では様々な祈祷が試みられたが功を奏さず、焦心苦慮していたところ、突如として上宮の神が現出し、村人たちに次のように託宣した。
『(出雲)大社の造営は諸国の神々が輪番で行うが決まり。次は自らの番であり、用材はすでに海辺へ納めた。
ただ、そこの巨木1本は我の得分であり、これを用いて我が鎮まる上宮の造営を成したもう』
こぅして神託を聞き届けた村人たちは1115年(永久三年)、満を持して上の宮の造営を営み、後世にてこの造営は「寄木の造営」と呼ばれ、歴史上に名前を刻んだのだった。
出雲大社・上の宮の御祭神
須佐之男命
須佐之男命は古事記においての書き方で、日本書紀では別名で「素戔嗚尊」とも書きます。
ご存知の通り、須佐之男命は日本国民の総氏神であり太陽神でもある「天照大御神」の弟神でもあります。
しかし、天つ国(天界)で大暴れしてしまい、大御神に天界を追い出されて地上へ降ります。
その降り立った場所が出雲国・鳥髪山(現在の船通山)というところで、降り立った当初、出雲国を震え上がらせていた大蛇「ヤマタノオロチ」を退治して英雄となります。
後にこの出雲の地に鎮まり、出雲の地神として祭祀されていくことになります。
一説によると出雲国には過去、「須佐」と言う場所があり、この地にて須佐之男命は祭祀されていたと云われています。
大和朝廷は朝廷を中心とした神話を創るために「須佐」を「荒ぶる”荒(すさ)”」の文字に置き換え、荒ぶった神として後世に伝え、強引に大和の中に出雲を取り込んだとも云われます。
須佐之男命はイザナギ神の鼻から生まれた神であり、一方、天照大御神はイザナギ神が左目を洗った時に生まれた神であることから兄弟神として見られていますが、実際には血縁関係はなかったという見方もされています。
これは過去、出雲の力を恐れた大和朝廷が朝廷(天皇)と出雲を結びつけて、出雲の大和朝廷に対するライバル心のようなものを削ぐための施策であったとも考えられています。
ちなみに京都祇園祭で有名な京都八坂神社の神仏習合時代の主祭神(御本尊)「牛頭天王(ごずてんのう)」は神仏習合時代の須佐之男命のことです。
八百萬神
「八百萬神(やおよろずのかみ)」とは「八百万の神」のことです。
これは800万いる神様と言う意味合いではなく、「たくさん神様がいる」という意味合いになります。
たくさん神様がいるとは、古来、神々は石や川、木々など自然のあらゆるものに宿ると信仰されてきました。
つまり八百万神とは上記のような石や川、木々、生活の場を持ち出すとトイレや風呂、台所などにも神が宿るとされ、これらの神々を総称したものが「八百萬神」になります。
ここでこんな疑問が出てきませんか?
八百萬神は何故、八百萬(万)なのか?
実は、昔の人々は数字の「8」に縁起を感じ、物事のすべてを表現する数を「8」と信じていました。
この「八百萬神」が日本史上はじめて登場したのが日本最古の書物と云われる「古事記」です。
古事記は奈良時代に編纂(へんさん)された書物です。
書物でいうと出雲にも「出雲国風土記(いずもこくふどき)」と言う、同じく奈良時代に編纂された風土記があります。
実はこの出雲国風土記にも八百万の神のような表現が記述されており、出雲国風土記では「天神1500万、地祇1500万」というような記述がみられます。
これは天界の神様の数が1500万いて、地上の神様が1500万いるという意味合いになります。
たくさん神々がいるという点では、古事記も出雲国風土記も同じ見方のようです。
上の宮は出雲大社で最重要な境外摂社!
既にご存知の方も多いと思われますが、出雲大社・上の宮は、なんと!出雲大社で最大の祭典とも言われる「神在祭」において、八百万(やおよろず)の神々が神謀り(かみばかり)と呼称される「縁結びの会議」が行わる場所だと伝えられています。
出雲大社にはじめて訪れる方であれば、通常は境内で一連の祭礼が終始執り行わるのかと思います。
しかし、思わぬ引っ掛けとなるのがこの神謀りのスケジュールです。
実際は、出雲大社の御本殿ではなく、神々はこの上の宮で日中会議を行い、会議が終わった後に出雲大社の境内へ戻り、翌日の会議に備えて休まれます。
神々が境内で休まれる場所は、境内の同じく摂社の「十九社(じゅうくしゃ)」になります。
つまり、『1日目:十九社⇒上の宮⇒十九社(zzz…)2日目:十九社⇒上の宮⇒十九社(zzz…)』・・と言う具合に7日間、連日この繰り返しで「神謀り」が執り行われ、会議が終わると神々は、島根県中の神社を巡られたのち、自らが祭祀されている場所(鎮座地)へお戻りになられます。
島根県中の神社を巡られる理由は、同時期に出雲大社以外でも神在祭を行う神社があるためです。
以上のことからこの上の宮が騒がしくなるのは年にたった1回きりとなり、つまりはこの神在祭の期間中のみと言うことになります。
なお、これは神々が宿泊される出雲大社境内の「十九社」も同じで、神在祭の期間中のみ開扉される殿舎となり、普段は扉は閉ざされていますが、両お宮とも神在祭期間外でも参拝は自由にできます。
えぇっ?!その1..『出雲大社・上の宮では神在祭限定の限定のお守りが授与される??』
あまり知られていませんが、神在祭の期間中の限定で、この上の宮では、神在祭限定のお守りや縁起物が授与していただけます。
通常では授与していただけないお守りとなりますので是非!神在祭期間中に参拝してありがたいお守りを授かってください。
えぇっ?!その2..『上の宮には正しい参拝の仕方が存在した?!』
実はこの上の宮には正しいとされる参拝方法があるようです。
その参拝方法とは、上の宮の近くに下の宮(しものみや)と呼称される出雲大社境外摂社があり、この下の宮と上の宮を同時に参拝するのが一応の正しい参拝方法のようです。
下の宮には伊勢神宮・内宮で祭祀されている「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」の御分神が祭祀されてます。
天照大御神と言えば伊勢神宮・内宮にご鎮座されている日本国民の総氏神であり、皇室の祖先神でもあり、さらに神様の中の神様という位置づけになります。
日本国民の総氏神ですので是非!上の宮に訪れた際は大御神にご挨拶をしておきましょう。
えぇっ?!その3..『地元・出雲では神在祭を別の名前で呼称する??』
実は地元・出雲では神在祭を別の名前で呼称することもあるようです。
神在祭は地元・出雲の方々にとっては古より特に神聖で最重要な行事と伝承されてきた歴史があります。
そんなことから神在祭に対して慎みをもって接し、神々の神謀り(会議)が無事に終えることができるように、街全体が厳かに静粛に過ごすそうです。
つまり、工事は一旦中止し、結婚式も挙行せず、大きな音をたてない(演奏なども控える)、場合によっては庭掃除も控える一家もあります。
以上、このように厳粛な性格をもつ祭典であることから、地元では別名で「御忌祭(おいみまつり)」とも呼称するようです。
【補足】八百万の神々が出雲大社(上の宮)で会議を行う理由
八百万の神々が縁結びの会議(神議り)にお越しになる理由は、大国主大神が幽世(かくりよ)の主宰者(神)であるからです。
これは大国主大神の別名である「幽冥主宰大神(かくりごとしろしめすおおかみ)」に由来するものですが、これについては、まず、神道では「現世(うつしよ)」と「幽世(かくりよ)」の2つの世界観があると考えられています。
「幽世」とは、人の目には見えない世界のことであり、神々の世界とされています。「現世」はその逆で、普段、私たち人間が暮らす世界です。
大国主大神が”幽冥主宰大神”と呼ばれる理由は、天照大御神に「あなたが繁栄させた日本大陸を私の子孫に譲りなさい。代わりにあなたには天をも貫く大神殿を授けましょう。そして、幽れたる(隠れたる)神々の事を治めなさい」と言われたことに端を発するものです。
「幽冥(ゆうめい)」とは、すなわち「幽世(かくりよ)」のことであり、「幽世(幽冥)にいる神々を”主宰”する大神」と解釈されます。「主宰」とは「物事を中心になって遂行する人(神)」のことであり、これが上の宮で行われる「縁結びの会議」に相当するものになります。
以上、まとめると八百万の神々は、天照大御神の命令によって主宰者(神)である大国主大神のもとに集うべくして集って会議をしているといった解釈になります。
ちなみにこれは余談ですが、室町時代では八百万の神々は出雲大社ではなく、同じ出雲でも島根県松江市鹿島町に位置する「佐太神社(さたじんじゃ)」に集うとされていたようです。
時代の変遷とはすごいものです。
出雲大社・境外摂社「上の宮(上宮)」の場所とアクセス
- 上の宮の住所:島根県出雲市大社町杵築北
出雲大社・上の宮は出雲大社の正門である「勢溜(せいだまり)」を海の方向へ出て(勢溜を向かいみて左手の方向)431号線を直進します。
途中、431号線を右斜め方向に右折しますが、目印として「境外摂社・大歳社(おおとしのやしろ)」が建っています。
後は両脇に民家が立ち並ぶ道を直進するだけです。
出雲大社(勢溜)から上の宮まで所要時間・距離
- 所要時間:約16分
- 距離:約1.3Km
上の宮の最寄りバス停
一畑バス日御崎線「奉納山入口バス停」
一畑バス日御崎線「稲佐の浜入口バス停」
出雲大社バスターミナルおよび正門前(勢溜の鳥居)→上記バス停までの料金:150円(バス所要時間:約3分)
- 一畑バス時刻表
車の場合
車の場合は「稲佐の浜の駐車場(稲佐の浜の道沿い)」へ停めて歩いて行く方法があります。ただ、神在祭期間中は満車になっている可能性があります。
- 収容台数:普通車23台、軽自動車2台
- 駐車料金:無料
- 出庫入庫時間:自由
神在祭期間中の穴場を含めた出雲大社付近周辺の駐車場に関しては以下のページを参照してください。
【補足】おすすめの観光モデルコース
阿国寺⇒阿国の墓⇒阿国の塔⇒出雲手斧神社⇒八大荒神社⇒大歳社(摂社)⇒上の宮(摂社)⇒下の宮(摂社)⇒稲佐の浜(御砂を採取)⇒屏風岩(大国主神の国譲り場所)⇒因佐神社⇒素鵞社(出雲大社境内/御砂をいただいて持ち帰る)
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