歌舞伎の創始者・出雲阿国(おくに)とは本当に実在したのか?出雲大社と「出雲阿国」の真の関係と歴史

スポンサードリンク

歌舞伎の創始者・出雲阿国(おくに)とは本当に実在したのか?出雲大社と「出雲阿国」の真の関係と歴史

「出雲国・阿国とは本当に実在したのか?」出雲大社と「出雲国・阿国」の真の関係と歴史出雲大社のことを調べると「阿国」という名前が出てくることがあります。

阿国とははたして、なんなのか?

以下では、この「阿国」についてご紹介して行きたいと思います。

まず、”阿国”とは何と読むの?”阿国”の読み方

阿国とは「おくに」と読みます。

また、近年の調査では「お国」と書くのが正式であることが明らかにされています。

阿国の苗字は何て言うの??

阿国は一般的に「阿国」という名前だけで知られていますが、苗字が気になってきませんか?

実は阿国には苗字が無かったとも云われています。

これには理由があり、この当時、阿国の家柄は百姓であり、百姓と言えばかなり低い身分でした。身分の低い者に苗字などなく、下の名前だけで呼び合うのが通例でした。よって、おそらく阿国にも正式な名前などなく、仕方なく「中村 国」などと名乗っていたのではないかと考えられています。

また、当時の百姓は鍛冶(金属製品の製造)も兼ねており、当時の鍛治方と言えば、和歌山に本拠を置く「根来衆(ねごろしゅう/忍者・密偵)との繋がりが非常に強かったとも云われます。

このことから、阿国の父親も根来衆であった可能性が示唆され、つまりその娘である阿国も根来衆として密偵を兼ねながら、日本の各地を移動していたとも考えられています。

ふむふむ・・それで「出雲国の阿国」とは?

調べて行くと阿国とは女性の巫女のことで、戦国期の安土桃山時代(1570年)以降に登場した人物であると云われております。

後世では一般的に歌舞伎(かぶき)の創始者(起源)として有名です。

出雲大社と阿国の関係

実は、この阿国は出雲大社の巫女だったようです。

阿国が活躍した1570年頃といえば戦国時代ということもあり、人々が困窮した時代でもあったため参拝者も少なく、出雲大社には社殿を修繕するお金がなかったようです。

そこで社殿の修繕費を稼ぐために、やむなく旅に出たといいます。

阿国は旅に出て諸国を練り歩く中で、神楽舞を披露することでお金を稼ぎましたが、その神楽舞こそが出雲大社で培ってきたものでした。

つまり、出雲大社の神楽舞を大勢の人の前で舞うことで、対価として金銭を受け取っていたのです。

出雲の阿国の出身地は本当に出雲の国なのか?

阿国 本当に実在したのか?その正体とは?実は、阿国の出身地についても詳しい文献が残っていないために、一切、不明であるとされています。

しかし、数少ない文献の中には「出雲の杵築中村の里(いずも きづき なかむらのさと)」の出身とされています。

これを現代の出雲の地形に置き換えると、大社町杵築北の中村町あたりとなり、日本海に面した稲佐の浜の付近の「中村町から鍛冶町の間の土地」が阿国の出生地ということになります。

現在、この中村町の付近には「阿国の塔」や「阿国のお墓」が建てられています。

それで阿国とは本当に実在したのか?その正体とは?

歌舞伎に関しての文献などから、「クニ」や「お国」なる女性が実在したのは、確かであると云われております。

しかし、伝説的な人物ということもあり、出自や披露した踊りに関しても後世で脚色された可能性があるとも考えられています。

脚色されたということ関しては、当時、歌舞伎で有名になった阿国を真似て、たくさんの阿国と称した一座が日本の各地で出没したためです。

旅へ出た当初、阿国は自身の出身地が中村であったために、お国や阿国と最初から名乗らずに、当初は「中村 国(なかむら くに)」と名乗っていた可能性があるとも考えられています。

阿国と歌舞伎の関係

阿国が有名になったのは、京都といわれております。

阿国が出雲大社を旅立ったのが1592年〜1596年(文禄年間/安土桃山時代)。言継卿記(ときつぐきょうき)という古書物によると1588年(天正16年/戦国時代)に京都の洛中にて道ゆく大衆の前で舞を舞ったという記述が残されています。

この他、時慶卿記(ときよしきょうき)という古書物によると、1600年(慶長5年)には、菊(キク)という連れの娘っ子と京都の公家・近衛家の邸宅「近衛殿(このえでん)」で「ややこ踊り」を披露したとの記述が残されているようです。

この後、阿国は京都中の神社を巡って、ごく普通の「神楽舞」を舞っていましたが、阿国が一躍、時の人となったのは、1603年(慶長8年)の春、北野天満宮にて念仏踊りを踊ったことに端を発します。

阿国が踊った念仏踊りの内容はと言うと、なんと!伊達男に扮した阿国が、お茶屋で働く粋な娘っ子に恋心を抱き、そのお茶屋の娘っ子を追いかけ回すとった演目でした。「女性が男装して娘っ子を追いかけ回す」といった演目は前代未聞であったために当時の人々は大変驚き人気を博したとのことです。

なお、この当時、阿国は「阿国一座」という団体を結成していたとも云われており、一説にはお茶屋の娘っ子の役を後述する男性(阿国の結婚相手)が演じたとも云われています。

こうして京都中に「阿国」の名前が知られるようになったのは、言うまでもありません。


スポンサードリンク -Sponsored Link-






歌舞伎の誕生

京都中に阿国の名前が知れ渡った後も、四条河原(現在の四条河原町)を中心に踊りを披露していたそうです。

ちなみにこの当時の四条河原町といえば四条大橋周辺に芝居小屋があるなど、歓楽街が広がり、京都でも特に人が集まる活気がある場所として知られていました。

そしてちょうどこの頃を境にして、今度は阿国の演目を真似たような踊りを踊る人や団体がポツポツと出没しはじめ、やがて阿国が始めた念仏舞踊(念仏踊り)が「遊女歌舞伎」と呼称されるようになります。「歌舞伎舞踊(かぶきぶよう)」の誕生です。

歌舞伎舞踊とは?

「歌舞伎舞踊」とそれまでの踊りとの決定的な違いは、今でいうところのセリフ付きの踊りだったということです。

当時、阿国が考案した歌舞伎舞踊とは、まず、女性である阿国が男装をします。(一説には同じ一座の男性が女装して女役を演じたとも)

しかしただの男装ではなく、ひときわ目を引くド派手な格好の「歌舞伎者(かぶきもの)」を演じて、男女の恋沙汰話などを面白オカシク劇風にアレンジを加えて、ユニークさを最大限にアピールした踊りのことです。

歌舞伎者の格好というのも、当時の人々の常識や理解を遥かに超越したものであり、肩に刀を据えて首から十字架や数珠を下げたド派手な衣裳をまといました。

阿国と歌舞伎の関係

さらに踊りにも改良を加えて当時ではタブーとまでされていた、女性が着物の裾をまくり上げ、大股を開いて生足をさらけ出すといったユニークさ満点の激しい動きも取り込まれました。

江戸時代に入ると踊りがますますエスカレートして、扇情的と捉えられてしまい、ついに歌舞伎踊りの禁止令が出されます。

以降、現在に伝わっているの踊りは男性が女性役を演じるような「野郎歌舞伎(やろうかぶき)」を原形とした歌舞伎になります。

野郎(やろう)とは?

野郎とは、中央のおデコ上部から後頭部にかけてバリカンで剃り上げて完全ハゲにしたような髪型である「野郎頭」をさらしたコノヤローのことです。江戸時代の時代劇でみるような成人の定番の髪型のことです。

阿国、ついに江戸城へ登城する!

こうして阿国の名前が京都を飛び越えて日本全国に轟く最中、なんと!ついに江戸城から将軍直々に「登城して舞を披露せよ」との声がかかることになります。

1607年(慶長12年)、万全を期して江戸城へ登城した阿国一座は、堂々と将軍の前で「遊女歌舞伎」はじめ「勧進歌舞伎」という踊りも披露し、名実ともについに「天下一の踊り子・阿国」として、天下に「阿国」の名前を轟かせることになります。

しかし残念なことに、この頃から日本各地で「阿国」を名乗る一座が出没し、本当の阿国の軌跡が分からなくなってしまい歴史上から姿を消してしまいます。

結城秀康と阿国のこんな逸話

実は京都の伏見城には、結城秀康と阿国に関してのこんな逸話が残っています。

当時、伏見城の城代を勤めていた結城秀康(ゆうきひでやす/次期、将軍候補であった人物)は、ある歌舞伎の一座を大変、気に入り、幾度も御殿に招き入れたといいます。

その一座こそが「阿国一座」です。

秀康は阿国と阿国が舞う歌舞伎に魅了され、度々、阿国を呼び寄せたという記録が残されています。

秀康はこの時、阿国を「天下一の舞女」として褒め称え、連日のように御殿へ招いたと伝えられています。

そして阿国自身も秀康が飽きないようにと、踊りをさらに研究して様々な歌舞伎のスタイルを誕生させたとの話も残されています。

こうして阿国が考案した歌舞伎は、「歌舞伎踊」「遊女歌舞伎」として、現在の「歌舞伎」の原形となっています。

徳島県の名物「阿波踊り」と出雲の国の阿国 との意外な関係

歌舞伎とは「傾く」とも言い、すなわち常識から外れた者のことを「傾き者」といいます。

ちなみに「傾く」は「かたむく」とも読むことができ、これは頭を傾けるなどの常識外れな動きをするすることから「傾き者」と呼ばれます。

一説には「かぶ」は古い呼称で頭のことを意味するとも云われ、その頭を傾ける奇怪な動きをすることから「傾く」になったとも云われます。

阿国が当時舞っていた舞(踊り)こそが、まさにそれにあたり、男装をした女性が、肌をアラワにし、大股を開いて脚を見せるといった踊りは「阿呆うな踊り」ともいわれました。

阿国が直接、徳島へ赴いたかどうかは謎とされていますが、当時、日本の中心であった京都から阿国が舞った歌舞伎が徳島へ伝来し、徳島の女性たちが阿国を真似て歌舞伎を踊ったことで徳島独自の踊りが誕生したとも云われています。

その徳島独自の踊りというのが、ご存知!日本を代表する徳島名物「阿波踊り(あわおどり)」です。

なお、一説では「阿波踊り」の語源として、正式には「阿呆踊り(アホおどり)」と呼ぶようです。

時代を経る過程で「阿呆」から⇒「阿波」と変化して、最終的に「阿波踊り」におさまったとも云われております。

ところで、出雲国の阿国は美人で可愛いかったのか?

既に上述しておりますが、京都の伏見城代であり次期将軍の候補でもあった結城秀康は、阿国を見て「天下一の舞女」と褒めたたえました。

これらのことから、人を惑わす魅力(妖艶さ)が、あったのは確かですが、絶世の美女であったかどうかについては謎とされています。

出雲の阿国は結婚していて、夫がいたのか?

実は阿国には夫がいて、結婚していたと云われています。(一説では、阿国の愛人であったとも)阿国の夫の名前は「三十郎」と呼び、狂言師であったと伝えられています。

この三十郎も阿国一座に所属しており、上述した遊女歌舞伎にて女装して女役を演じていたとも云われております。

なお、三十郎の正式な名前を「名古屋山三(なごやさんざ)」といい、大層な美男子であったと伝えられています。

阿国の家族(両親)とは?

阿国は、出雲大社の所属の「鍛冶職・中村三右衛門」の娘であったと云われています。

なお、この記述が見つかった文献から、阿国が女性であったということが判明したそうです。

阿国の没年と亡くなった場所について

伝承によると阿国の没年や没した土地に関しても様々な説があるようです。

  1. 1607年(慶長12年)小田原(神奈川県)で没した
  2. 1613年(慶長18年)に67歳で没した
  3. 出雲の地へ再び戻って尼になり「智月尼(ちげつに)」と名乗り、当時では長寿といわれた87歳でこの世を去った
  4. 1617年(元和3年)地名は定かではないが72歳で没した

出雲地方に伝わる伝承では、旅を終えた阿国は出雲へ戻り、尼僧となって実家近くに「草庵(そうあん)」を建て、毎日、お経や歌詠みを続け87歳で生涯を終えたと伝わっているようです。

現在、出雲大社近くにある「阿国の塔」には、歌舞伎で有名な中村一門や市川一門の有名どころ俳優の名前が書かれた石碑があり、これに名前が刻まれています。

過去を掘り返せば、この中村一門の「中村」というのも、元は阿国が名乗っていた苗字であり、現在の中村一門は阿国の子孫であるとも考えられています。

【補足】阿国の歴史と歩み(年表)

1545年(天文14年)

阿国誕生。(1572年(元亀3年)と言う説もある)

1600年(慶長5年)

「時慶卿記(ときよしきょうき)」と古文書に歴史上はじめて「国(クニ)」の名前が登場。京都の近衛殿で踊りを披露。

1603年(慶長8年)

1624年~1644年(寛永年間)に編纂された古文書「当代記」に出雲国の巫女が伏見城、北野天満宮、四条河原の町などで「歌舞伎」を踊ったという記述が見つかる。

1607年(慶長12年)

江戸城に登城し勧進歌舞伎を舞う。(一説ではこの年に没したとも)

1613年(慶長18年)

67歳で死去。(1617年(元和3年)に72歳で没したとも)

出雲市内での阿国に関係した観光スポット「阿国のお墓」「阿国の塔」「連歌庵」

出雲大社の近くには「阿国の墓(おくにのはか)」と「阿国の塔(おくにのとう)」があります。また、少し離れますが、「連歌庵(れんかあん)」と呼ばれる阿国が余生を過ごしたとされる庵もあります。

詳細は以下の別ページにてご紹介しています。

 出雲大社の近くで歌舞伎で有名な”阿国(おくに)”に関係した観光スポット「阿国のお墓」「阿国の塔」「連歌庵」をご紹介!

【補足】おすすめの観光モデルコース

阿国寺阿国の墓阿国の塔出雲手斧神社八大荒神社大歳社(摂社)上の宮(摂社)下の宮(摂社)稲佐の浜(御砂を採取)⇒因佐神社素鵞社(出雲大社境内/御砂をいただいて持ち帰る)

スポンサードリンク -Sponsored Link-

    

当サイトの内容には一部、専門性のある掲載があり、これらは信頼できる情報源を複数参照し確かな情報を掲載しているつもりです。万が一、内容に誤りがございましたらお問い合わせにて承っております。また、閲覧者様に予告なく内容を変更することがありますのでご了承下さい。

関連コンテンツ