出雲大社(IZUMO-OYASHIRO)・天前社(AMASAKI-NO-YASHIRO)【重要文化財】

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出雲大社(IZUMO-OYASHIRO)・天前社(AMASAKI-NO-YASHIRO)【重要文化財】

2016y02m24d_094715763⬆️写真(画像)左・「御向社」/右・「天前社」

創建年

  • 1744年(延享元年/江戸時代中頃)
建築様式(造り)

  • 切妻造り
  • 妻入

※大社造り

階隠(はしかくし/階段上の屋根)の大きさ

  • 桁行(奥行)一間(約2m)
  • 梁間(正面/横幅)一間(約2m)
階隠の建築様式(造り)

  • 切妻造
  • 妻入
屋根の造り

  • 檜皮葺(ひわだぶき/ヒノキ)
御祭神

  • 「蚶貝比賣命(キサガイヒメノミコト)」
  • 「蛤貝比賣命(ウムガイヒメノミコト)」
重要文化財指定年月日

  • 2004年(平成16年)7月6日
社格

  • 出雲大社・摂社
別名(延喜式神名帳)

  • 神魂伊能知比売神社

摂社とは?
摂社とは」「末社」と同じく、本社の主祭神と関連のある神様をお祀りした本社境内の神社となります。
格式(社格)は「本社>摂社>末社」となります。

出雲大社・天前社の読み方

出雲大社の境内には、少し特殊な字体の名前のお社がいくつか存在しておりますが、その内の1つと呼べるのが、この「天前社」となります。

「天前社」の読み方は「あまさきのやしろ」と読みます。

鎌倉時代以前は「雨崎社(あまさきのやしろ)」と書かれていたようです。

出雲大社・「天前社」の別名

この「天前社」は、「延喜式神名帳(9巻/10巻)」によると、「神魂伊能知比売神社(かみむすびいのちひめのかみのやしろ)」として位置づけられており、これがこのお社の正式な名前になります。




出雲大社・天前社の御祭神「蚶貝比賣命」「蛤貝比賣命」

蚶貝比賣命

蚶貝比賣命は「きさがいひめ」と読みます。「蚶貝」とは、現在の「赤貝」の古い呼び方です。すなわち、この神様は「赤貝」を神格化した神様になります。

古事記においては神産巣日之命(かみむすびのみこと)と関係が深く、神産巣日之命の命令によって大国主大神を助けています。

ただ、出雲に昔から伝わる古書物「出雲国風土記」によれば「神産巣日之命の子神」と記されていることから、いずれにしても主祭神「大国主大神」とは深い関連性がある神様です。

蛤貝比賣命

蚶貝比賣命は「うむぎひめ」と読みます。この神様は漢字を見れば分かるとおり、「蛤(はまぐり)」を神格化した神様です。上記、蚶貝比賣命とは姉妹神になりますので、同じく出雲国風土記では神産巣日之命の子神とされています。

この2柱の神さまは、自らの肉体を用いて大国主大神を助けています。具体的には蚶貝比賣命は自らの肉体の一部を砕いて粉末状にして、そこへ蚶貝比賣命は貝汁を落として混ぜ合わせたものを、ヤケドによって焼けタダれた大国主大神の身体へペタペタと塗りたくっています。ペタペタ

出雲大社・天前社の歴史・由来と「大国主大神との関係」

出雲大社の主祭神である大国主大神は、兄弟神の「八十神(やそがみ)」に嫌われていました。

ある時、兄弟の「八十神(やそがみ)」から、現在の鳥取県西伯郡にある「手間山(てまやま/現在の要害山)」に出没した「赤い猪(いのしし)」を食い止めて欲しいと頼まれました。

大国主大神はその要請を快諾し、その「赤い猪」を食い止めると・・、なんと!不思議なことに「大ヤケド」を負ってしまい落命してしまいました。

しかしいったい、なぜ大国大神は「大ヤケド」を負ってしまったのでしょう?

実は大国大神が受け止めたのは「赤い猪」ではなく、なんと!「焼けた大石」だったのです。アツっ!を通り越して”アぢっ!”

この訃報を知った大国主大神の母親である「刺国若比命(さしくにわかひめ)」は嘆き悲しみながら高天原へ昇って神産巣日神に会って「どうか息子を生き返らせて欲しい」と懇願します。

それを聞き届けた神産巣日神は「蚶貝比賣命」と「蛤貝比賣命」を大国主大神のもとへ遣わします。

「蚶貝比賣命」は自らの身体の一部を砕いて粉にして、「蛤貝比賣命」は粉に自らの身体から絞り出した「ハマグリ(蛤)の汁」を混ぜ込み、それを大国大神の焼けタダれた身体へ塗りこみました。

すると、驚くことに、なんと!大国主大神は生き返ったのです。

このように、この2柱の御祭神(蚶貝比賣命、蛤貝比賣命)は、大国主神の命の恩人である神々のため、御本殿の真横に祀られたと考えられます。

なお、この話は島根県と鳥取県の境目に位置する手間山(要害山)近くの「赤猪岩神社」に現在も「大国主蘇生神話」として語り継がれています。

赤猪岩神社の場所

出雲大社から車で約1時間30分

出雲大社・「天前社」の建築様式(造り)

天前社の造営年は1744年10月頃と推定されており、御本殿同様の大社造りで造営されています。

小さな社殿となりますが、2004年(平成16年)7月6日に国の重要文化財に指定されています。

屋根は薄いヒノキの板を何重にも張り合わせた「桧皮葺(ひわだぶき)」。屋根の両はしには御本殿と同じく「鬼板(おにいた)/おにがわら」と、置き千木(置いている千木)が据えられています。

天前社(脇宮三社)の特徴としては、「木階(きざはし/=木製のかいだん)」「扉」「階隠(はしかくし/かいだん上の屋根)」が中央、正面には「宇豆柱(うずばしら)」がない大社造りの殿舎です。




「脇宮三社」

この「天前社」と隣の「御向社」および、御本殿を挟んで向こう側に位置する「筑紫社」は社殿の形状が非常に類似していますが、これら3社は「脇宮三社」と呼ばれており、摂社でありながら式内社(しきだいしゃ)にも列せられていますが、殿舎の形状から大きさも全て同じ様式で造営されています。

この理由は察しがつくとおり、御本殿に座す「大国主大神」と非常に関連の深い神様が祀られているからです。

しかし、脇宮三社と呼ばれているだけではなく驚くことになんと!この三社の中には古来、「格」が存在するようなのです。この事実は出雲大社に伝わる古文書「杵築大社御正殿日記目録」などに記述が見つかっており、「格」とは現代風で言えば「誰が一番エラいの?」ということです。

脇宮三社の格付け

  1. 筑紫社
  2. 御向社
  3. 天前社

下記の写真を見れば理解できますが、筑紫社は御本殿を向かい見て”左側”、残る2社「御向社」「天前社」が御本殿の”右側”に位置します。

実は出雲大社は通常の神社と異なり、注連縄の向きが逆であるという話は有名ですが、この理由となっているのが、この脇宮三社の格付けの様相がそのままダイレクトに反映されているからなんだだそうです。

すなわち「左方が上位」ということです。

出雲大社の大注連縄は拝殿神楽殿に飾られていますが、日本最大の大きさとして有名なのは神楽殿の大注連縄です。そしてこの2殿ともに注連縄の向きが逆になっています。

注連縄に関しての詳細については、神楽殿のページを ご覧ください。

脇宮3社(天前社・御向社・天前社)は常時見れない!

下掲の写真が示す通り、これら脇宮3社は八足門の奥にありますので、一般参拝客が入れるのは残念ながら八足門の前までだということは通常拝観では見れないというワケです。

ただし、正月三が日、祭典(60年に1度の遷宮の時など)の特別な日や、ご祈祷を受けた人のみ八足門の内側へ入れることがあります。

門内は通常、一般客は立ち入りができないエリアになりますので、神職の方の先導により、より本殿に近い位置での参拝が可能になります。

楼門の奥は神職であっても入れない!

出雲大社は八足門の奥には楼門が立ち、その奥に本殿が控えるような配置になっていますが、出雲大社の本殿に入ることが許されているのは、代々の出雲国造のみです。

つまり、出雲大社の最高責任者である神主(宮司)のみです。天皇陛下ですら入れないというから驚きです。

脇宮3社(天前社・御向社・天前社)と素鵞社の御祭神の不思議な配置

この三社の御祭神と本殿背後の素鵞社の配置を見ると、まるで本殿を守っているようにも見えます。

素鵞社は本殿の背後に位置し、脇宮3社は本殿の前方に本殿を守護するかのように並立しています。

これらの社殿に祀られている御祭神から考えていくと御本殿に安置される大国主大神を中心にその前方に妻神と自らの命を助けた神、そして後方の素鵞社は自らの父神でもあります。

これら御祭神の配置を鑑みても何かしらの意図があってのことのように思えてなりません。

出雲大社・天前社の場所(地図)

天前社は、瑞垣内、御本殿の東側「御向社」と並んで位置します。向かって右側の殿舎が「天前社」です。

関連記事: 島根県・出雲大社の境内の詳細「案内図(地図・マップ)」(ダウンロード可能)

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