出雲大社(IZUMO-OYASHIRO)・ 稲佐の浜(INASA-NO-HAMA)
「稲佐の浜」の読み方
稲佐の浜は「いなさのはま」と読みます。
また別名で「伊耶佐(いざさ)の浜」とも呼称するようです。
「稲佐の浜」とは?
「稲佐の浜」とは、島根県出雲市大社町にある日本海を臨むようにして開かれた砂浜(海岸)のこと。
西向き・弓なり状に南北約10kmに亘って延びる。
なお、厳密に稲佐の浜とは後述、「薗の長濱」に含まれる北端約700メートルの砂浜のことを指す。
稲佐の浜の「稲佐」の意味とは?
稲佐と聞いてこんな疑問がわきませんでしたか?
海なのになぜ「稲」の文字が付くのか?と言ったことです。
実は、稲佐は「伊那佐」と書くのが正式なようです。
このことは古事記に記載されています。(日本書紀では「五十田狭/いたさ」)
「伊那」の意味は諸説あるようですが、現在に伝わっている有力な説として「砂地」を意味するようです。
「佐」は接尾辞として、「美しい小さな砂丘」と言った意味合いを成すそうです。
稲佐の浜の別名
神話の時代、古事記には「伊那佐の小濱」と素敵に記され、日本書紀には「五十田狭の小汀」と記す。
また、稲佐の浜の南方向の浜(島島根半島西部の浜)は「薗(園)の長浜」と、これまた素敵に呼ばれる。
なお、出雲国風土記の国引き神話によると島根半島と佐比売山(三瓶山)とをつなぐ綱であるとする。(国引きについては記紀には記されない)
稲佐の浜が”稲佐”と付けられた理由
他にも”稲佐”と言う呼び方にまつわる言い伝えがある。
なんでも「建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)」が「大国主大神」や「大国主大神の2柱の子神」に「国譲りの交渉」を持ちかけた際、「否(いな)か?、然か?(さ)」(国を譲るのか?譲らないのか?)と発したたことが由来になっていると云われています。
(国譲りに関しては素敵に後述♡)
出雲大社・稲佐の浜の歴史
出雲大社へ参拝に訪れて、まず知らない方はいないと思われますが、稲佐の浜とは出雲大社に西門から出て、西方向へ徒歩で進むこと約15分ほどで見えてくる神秘的な光景の砂浜のことです。
神話の時代に創造された稲佐の浜
「出雲国風土記」の意宇郡(おうぐん)の冒頭には、「淤美豆奴神(おみづぬのかみ)/八束水臣津野命(やつかみずおみつの)」が出雲国を創造したとし、当人が国を作り終えた後、「狭布(さの)の稚国(わかくに)なるかも、初国小さく作らせり、故、作り縫はな」などと愚痴をこぼしたことを記す。
訳すと「布状の細長い狭い国を作ってしまった。他の国を繋ぎ合わせてデカくする必要がある‥‥」などの意味合いになる。
そこで淤美豆奴神は「佐比売山(三瓶山)」と「火神岳(大山)」に綱をかけ、「国来国来(くにこ くにこ)」と呟きながら陸を引いてきて、完成した土地が現在の島根半島だと言う。
また、東端の「三穂(みほ)の埼」は北陸、西端の「支豆支の三埼(御埼/きづきのみさき)」は朝鮮半島の志羅紀(新羅)に求め、その間の「闇見(くらみ)の国」と「狭田(さだ)の国」はそれぞれ「北門(きたど)の良波(よなみ)国」、「北門の佐伎(さき)国」から引き込んだ。
この後、北陸の三穂の埼を引いた綱は「夜見の嶋(現・弓ヶ浜半島)、志羅紀の三埼を引いた綱は「薗の長浜(現・稲佐の浜)」になったらしい。
こぅして国引きを完遂させた淤美豆奴神は、猛々しい雄叫びを発しながら大地に杖を突き刺すと、たちまちのうちに木々が繁茂し、それが「意宇の杜(おうのもり)/島根県松江市竹矢町」になったと言われる。
現在の意宇の杜は木々が繁茂するどころか、一面に田畑が広がる田園地帯ではあるものの、淤美豆奴神が地面にブッ刺した杖が今も尚現存し、地元では「意宇のタブ」として古くから大切にされている。現在でも毎年10月1日になると上竹矢、中竹矢らの講中(人々)によって祭儀が営まれる。
寄木の造営
1110年(天仁三年/平安時代)7月4日、出雲大社西方約1キロの稲佐の浜辺に長さ10丈(約30メートル余)もの巨木が100本近く漂着したらしい。
また、同じ頃、因幡の国(鳥取県東部)の上宮近くの海辺にも長さ15丈(約45メートル)、太さ1丈5尺(約4.5メートル)もの巨木が1本が漂着した。
因幡の村人たちが巨木を切ろうとした折、大蛇が巻きついていたらしく、逃げ帰った村人は全員に病におかされたとな。
その後、村では様々な祈祷が試みられたが功を奏さず、焦心苦慮していたところ、突如として上宮の神が現出し、村人たちに次のように託宣した。
『(出雲)大社の造営は諸国の神々が輪番で行うが決まり。次は自らの番であり、用材はすでに海辺へ納めた。
ただ、そこの巨木1本は我の得分であり、これを用いて我が鎮まる上宮の造営を成したもう』
こぅして神託を聞き届けた村人たちは1115年(永久三年)、満を持して上の宮の造営を営み、後世にてこの造営は「寄木の造営」と呼ばれ、歴史上に名前を刻んだのだった。
明治時代
明治21年
この稲佐の浜は明治21年に島根県下で初めて開設された海水浴場です。
毎年、夏い暑になればたくさんの海水浴客が訪れる一大観光スポットでもありんす。
海水浴の好きだった小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)も明治23年にこの浜に家族と共に海水浴に訪れて16日間も過ごしたらしく、この当時からすでに海水浴場として認知されていた。
養神保壽(養神保寿)の石碑
稲佐の浜北端には「養神保壽(養神保寿)」と陰刻された石碑が一基ある。
この石碑にも明治21年に稲佐の浜が海水浴場として開かれたことを記し、これが島根県最初の海水浴場だったそうな。
薬効も認められていた?
明治21年、初代・陸軍軍医総監を務めた松本順が山陰地方巡覧のみぎり、この稲佐の浜へも立ち寄り、神経痛・腰痛・不眠・食欲不振などの42の病気に効能があるとした。
これを千家国造家の御殿医だった地元医師・石部元順に海水浴場として開くべきだと強く推薦したと言われる。(この後石部元順は、地元の有力政治家・西山関一朗と協力を得て明治21年海水浴場を開設する。)
実はこの当時の海水浴は「しおゆあみ」や「塩湯治/潮湯治(しおとうじ)」などと称し、海水を温めて薬湯としていたらしく、水温が上がる夏場に海水浴と称して薬湯としていたらしい。
大正時代
1919年(大正八年)、稲佐の浜に爽やかな地中海の海岸を彷彿とさせる純白の「大社教育水族館」が誕生した。
オットセイが人気を博したらしいが、度々の荒天に見舞われ、次第に客足も遠のき数年で廃業となった。
昭和時代
1926年(昭和元年)
昭和初年より運航が開始された「大社・日御碕定期観光船」は、この稲佐の浜から日御碕までの間を多くの観光客を乗せて1日3往復航行していました。航行時間は片道40分。さらに時代が下ると「杵築ー河下線」や、杵築ー久手線も臨時線として運航されるようになります。
1933年(昭和8年)
大社漁港の修築工事が実施されています。
大社漁港が創設されるまでは、主として、この稲佐の浜の弁天島から赤塚浜に至るまでの浜一面に漁船を船揚げしていたのです。
ところが昭和時代になると水産業が発展し、それに伴い発動機船が激増し、 漁船の収容場所が無くなってきます。このため港の建設の声が高まり、ついに昭和8年より五カ年計画にて漁港の建設工事が開始されています。
1936年(昭和11年)
稲佐の浜の弁財天宮社の遷宮が執り行われています。
宮、鳥居、架橋、いずれも地元・出雲市大社町宇龍に在住の「山根久三郎」氏の寄附奉納によるものです。
1951年(昭和26年)
昭和26年になると「砂防林」としての機能をもたせる目的で松が植林されまする。
1953年(昭和28年)
昭和28年の「神国博覧会」にて会場の一つに指定された稲佐の浜に再び水族館が設営される運びとなった。つまり二代目。
博覧会後も「大社水族館」として営業を継続するも、経営難の赤字という泥沼から這い出せず、数年後に廃業。
1960年(昭和35年)
現在も稲佐の浜にあるどデカイ岩「弁天島」はかつては海の中(浜の沖合)にあり、歩いて間近まで行くことできなかったのです。…間近だけにマジか?
その弁天島の斜め前には、長さ約40メートル、幅6~7メートルほどもある「クジラ島」と呼ばれるクジラの形をした大きな岩があり、昭和初期になるとこのクジラ島脇に「大社・日御碕定期観光船」の発着のための桟橋が組まれ、観光客で賑わいまする。
ところが、1950年代になると稲佐の浜の堆砂化(たいしゃ)が進み、徐々にクジラ島が砂で隠れて見えなくなり、1960年を迎える頃になると往時の影すら残さないほど砂中に完全に埋もれてしまいます。
平成時代
1996年(平成8年)
稲佐の浜が「日本の渚百選」に選出されます。
2016年(平成28年)
4月28日、出雲市が文化庁に申請していた「日本遺産・日が沈む聖地出雲」が認定され、文科省にて認定証の交付が行われています。
県内では「津和野今昔」、「出雲國たたら風土記」に続く3件目の快挙であり、日本遺産認定により、日御碕と併せて周遊観光客の増加が期待されています。
12月3日、日本遺産「日が沈む聖地・出雲~神が創り出した地の夕日を巡る~」の観光ガイド養成講座が「うらら館」で開催されています。
観光ガイドとして働くことを希望する市民ら約100人が参加。日本遺産のことや出雲の歴史や魅力、そして、観光ガイドとしての注意点やコツなどを学んでいます。
5月26日、稲佐の浜で第13回「稲佐の浜夕刻篝火舞」が開催されています。約1200人が参加し、篝火に照らされながら、出雲、石見、安芸高田それぞれの地域に伝承される神楽を奉じてしています。
演じたのは大土地神楽保存会、石見神楽温泉津舞子連中、安芸高田市の青年神楽団の人たちです。
出雲八景の一角だった!?
この稲佐の浜は往時は「出雲浦」という名称で数々の歌などにも詠まれた名勝でもあり、「出雲八景」の一つにも数えられたほどの浜。
確かに、抜けるような青々とした空、そして深青の大海原と、この美しい砂浜を見渡せば、真暑の夏さなど吹っ飛び爽快な気分になります。
以下ではこの美しい稲佐の浜についてご紹介しています。
稲佐の浜の見どころ
神迎え祭(神在祭)
この稲佐の浜が一躍、全国的に有名になったキッカケとなったのが、誰が何と言っても「神迎え祭」です。神迎え祭は、出雲大社でもっとも大きな神事である「神在祭」の中の神事であり、旧暦10月10日になると、八百万の神々と龍蛇様が稲佐の浜に到着されるので、それをお迎えする神事がこの浜で斎行されます。
浜にある弁天島には古来、神が祀られていることからも分かるとおり、この浜は神が憑りつく神聖な場所でもあるのです。
弁天島
一般的に我々が知る稲佐の浜の光景は、青々とした透き通るような美しい海と、ゴミ1つない地平線まで広がった美しい砂浜に小島だけポツンと1つだけある光景です。
この小島を「弁天島(べんてんじま)」と呼称し、地元では「べんてんさん」と親しみをもって呼ばれています。
えぇっ?!弁天島は流されてきた??
実はその昔、この弁天島はなんと!もっと沖合にあったことから、地元では別名で「沖ノ御前」や「沖ノ島」とも呼ばれています。
ちなみに昭和60年頃までは現在の弁天島の場所はすべて海だったようです。
つまり砂浜がもっと内側であったことになりますが、この理由は上述の通り、土砂の堆積により、徐々に砂浜の面積が増えていったものと考えることができます。
江戸時代の頃、「勢溜りの鳥居の周辺は砂丘であった」と云われていることに納得ができます。
おそらく勢溜りの鳥居の手前あたりまで浜辺の砂浜地帯が広がっていたのでしょう。
現在では弁天島まで歩いて間近で弁天島の景観を見学することができます。
弁天島の鳥居
弁天島をよ~くご覧ください。
小島の上に「鳥居」が立てられていることに気づきませんかぃ?
鳥居があると言うことは神様がお祀りされていると言うことになりますが、地元では「沖ノ御前神社」や「沖ノ島神社」などとも呼ばれます。
ところで、この弁天島で奉斎される神様はどんな神様かお分かりになりますかぃ❓
弁天島の神様は、弁天という名前が付くだけあって弁財天が祀られているようにみえたり、はたまた出雲大社と強い関係のある神様かとイメージしてしまいますが、残念ながら出雲大社とは直接的な関連性の無い神様となる。
しかしこの神様、現在の皇室と深い関連のある神様でもあります。
誰だかお分かりでしょうか?
御祭神とは「豊玉毘古命(とよたまひこのみこと)」と言う神様になります。
豊玉毘売の「豊」は「豊かな」、「玉」を「玉(真珠)」を意味し、総じて「豊かな玉に神霊が依り憑く巫女」と云われます。
故事(神話)によると、海神である綿津見神(わたつみのかみ/豊玉彦命)には二柱の娘がいたが、姉を豊玉姫、妹は玉依姫と称したとされる。
また、皇室とこの神様の繋がりですが、この神様の妹を「玉依姫(たまよりびめ)」と呼称し、この玉依姫が生んだ末っ子を「神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれびこのみこと)」と呼称します。
そしてこの「神倭伊波礼琵古命」こそが、日本の初代天皇・神武天皇のことだと云われております。
弁天島には登れない!
この弁天島は登拝するものではなく、下から見上げる恰好で参拝する物です。
朝日や夕日に照らされた弁天島が何かこぅ、神々しいものが感じられます。
なお、この弁天島の社には賽銭箱も無ければ鈴もありんせん。
弁天島が出雲大社に所属する子社ではない!
弁天島は出雲大社の子社ではありません。単立の社です。
ところで‥‥‥なぜ「弁天島」と呼ばれる❓
この島にはどうやら明治以前の神仏習合の時代は本当に弁財天(弁才天)が祀られていて、それゆえ古くから弁天島と呼ばれていたとのこと。
それが明治初めの神仏分離令によって神様と仏様が分けて祀られることが義務付けられると、現在の神様が祀られるようになったとのこと。オホっ
潮汲み神事
出雲大社だけではなく、大社町すべての住民を対象とした神事があります。
その神事こそが「潮(塩)汲み神事」です。
この神事は、年に12回も執り行われる神事で毎月1日の早朝に、住民の代表者が数人集まって、竹で作った「潮汲み箍(たが)」と呼ばれる「竹筒」を用意して稲佐の浜で海水を汲みとります。
汲み取った海水は出雲大社と荒神社(稲佐の浜付近/大社町杵築北2951)に供進(お供え)します。
供進する際、笹の葉を1枚手に持って、汲んできた海水を自らの身体と神前に振りかけて祈願します。
そして祈願した後の海水は持ち帰って「玄関などの家の出入り口となる所」や神棚、家族にも振りかけます。
こうしてその月の邪気を祓い、家内を清浄にすることができ、つまりは厄災を退けることができるそうです。
稲佐の浜の砂は魔除け(厄除け)の砂?
いつ頃、成立した風習なのかは判然としないらしいが、この出雲大社境内奥に佇む素鵞社(そがのやしろ)には古くから「御砂奉納」と呼ばれる風習があり、床下に置かれた木箱の中には稲佐の浜の砂が納められいる。
奇しくも稲佐の浜でとってきた砂をこの木箱に入れて一年寝かせた後に持ち帰ると魔除け(厄除け)の御守となり、はたまたこの砂を撒いた畑は、よく作物が育つと言われる。
日本の渚(なぎさ)百選
「日本の渚百選」とは、「一般社団法人大日本水産会」が主催する、日本全国の渚(なぎさ)の中でも特に美しく印象に残る渚を100ヶ所選ぶ企画です。
そして、この稲佐の浜もこの1996年(平成8年)に見事!「日本の渚100選」に選出されています。
- 日本の渚100選の一覧:http://www.mori-taki-nagisa.jp/
稲佐の浜は夕日が有名!
稲佐の浜の夕日は実は「日本遺産・日が沈む聖地出雲」に登録されているほど、愛おしいお前の横顔のようなキレイな夕日が見られる場所として有名💘
詳細は下記ページを‥‥要‥‥チェックや!
かつては稲佐の浜だった?屏風岩と国譲り
稲佐の浜から徒歩5分くらい陸側を東へ向かって進んだ先に「屏風岩(びょうぶいわ)」と称する、名前の通りの屏風形の岩がありまする。
現在は稲佐の浜から徒歩3分ほどの内陸部分にあるのですが、往時はこの岩の前は海だっとされ、つまりは稲佐の浜だったのです。
記紀神話によればこの屏風岩の手前で当時、葦原の中つ国(日本)の王であった大国主大神が高天原に座す天照大神により、国譲りの交渉をもちかけられたとされています。
幾度かの交渉の末、大国主大神は日本の支配権を天照大神へ譲ることを約束し、自らは幽(かく)れたる神々を統べるべく、幽界の主宰神として幽界へ退きます。
なお、ここでの幽れたる神々とは、人の目には見えない八百万の神々を指し、今でも年に一度、神々たちを自らの宮殿へ参集させ、「神議(かむばかり)」と称される縁結びの会議を行っています。
屏風岩についての詳細は下記ページにてご紹介しています。
稲佐の浜の場所(出雲大社から稲佐の浜への行き方)
徒歩
出雲大社から稲佐の浜へは単純に出雲大社の境内の西門から西方向(海の方向)へひたすら歩くだけです。
詳しくは「観光センター出雲」の前の交差点から国道431号線へ入り、西方向(海の方向)へひたすら直進します。
途中に「出雲阿国の墓」や「阿国の塔」、神謀りが行われる「出雲大社・境外摂社・上宮」などがあります。
- 出雲大社から稲佐の浜までの徒歩での所要時間:約15分
- 距離:約1.5Km
バス(一畑バス)
乗車するバス停
下車するバス停
- 稲佐の浜入り口(時刻表)
「稲佐の浜」というバス停もありますが、このバス停は稲佐の浜入口よりも遠い場所にあり、下車すると帰る際に時間がかかります。
砂を取るor弁天島へも行かれる場合は稲佐の浜入り口というバス停がオススメです。
稲佐の浜バス停の前の浜辺は海水浴スポットなので、夏時期になると海水浴客がよく当バス停を利用します。
稲佐の浜に関してのINFO
出雲観光協会
住所:島根県出雲市大社町修理免735−5
定休日:月曜日
公式URL:https://www.izumo-kankou.gr.jp/
【補足】おすすめの観光モデルコース
阿国寺⇒阿国の墓⇒阿国の塔⇒出雲手斧神社⇒八大荒神社⇒大歳社(摂社)⇒上の宮(摂社)⇒下の宮(摂社)⇒稲佐の浜(御砂を採取)⇒屏風岩(びょうぶいわ)-神話の国譲りの場所に今もある屏風形の奇石-⇒因佐神社⇒素鵞社(出雲大社境内/御砂をいただいて持ち帰る)