屏風岩(びょうぶいわ)-神話の国譲りの場所に今もある屏風形の奇石-

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屏風岩(びょうぶいわ)

稲佐の浜 屏風岩

「屏風岩」の名前の由来と意味

屏風岩の「屏風」とは、我々がよく知る「アコーディオン状の移動ができる仕切り板」のような物のことで、格式ある和式の佇まいの家宅や寺社の茶室などに飾られている姿をイメージしてしまいます。

その屏風を広げた時のような形をしていることから、この岩は「屏風」と呼ばれています。

⬆️「国譲巌」という刻字はいった石碑も残されている。(巌=いわ)

屏風岩は2枚構造になっている!

ちなみにこの屏風岩、よく見ると、根元で二枚(二重)状になっているのが分かります。ゆえに屏風岩と呼ばれたのでしょう。

その2枚の岩の間から樹木が生えており、今では岩全体を覆うようにして枝葉を伸ばしているように見えます。ちなみにこの樹木の名前を聞いたところ、「マサキ」という名前の樹木になるとのこと。上掲写真にはツタのようなものも見えまするが、これは秋になると紅葉するので、おそらくはツタモミジの類いかと。オホ

現在の屏風岩は間近で観れない

この屏風岩の手前には次のような看板が立てられており、敷地内への立ち入りは原則できなくなっています。

入らないで!

この屏風岩は倒れる恐れがあります。敷地内に入らないでくさだい。

大社町

確かにこの岩を横から見れば分かりまするが、2m余程の高さの割にはあまりにも厚みがなく、倒れてきそうな気はします。

同様の形状の石碑であれば土台でシッカリかりかりカリカリ梅的なほどに固定されていますので、倒壊の心配はありんせん。

以上、どうしても間近でご覧になりたい場合は自己責任の範疇にて。オホ

ちなみにこの看板の隣にも、もう1つ看板があるのですが、このように書かれています。

国譲りの地”屏風岩”

出雲国を造られた大国主命と高天原からの使者として派遣された武甕槌神(タケミカヅチの神)が、この岩陰で国譲りの話し合いをされました。

戦うことなく笑顔で国譲りをされた大国主命の「和を尊し」とする心は今もなお出雲の人々の心に受け継がれています。

そうなのです。なんとぉぅっ!記紀神話の古事記によればこの岩の前で「国譲り」の交渉が行われたとされ、「日本書紀」においては、建御雷神と経津主神(ぬつふしのかみ)が天降った後、豊葦原水穂国を平定したとされています。


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ところで・・「国譲り」とは?

国譲り(くにゆずり)」とは一般的には天孫降臨の際、天照大御神が「私の子孫が葦原の中つ国(日本大陸)を治める」と宣言され、配下の神々を地上へ(葦原中つ国へ)遣わして、葦原中つ国を譲るように交渉に向かわせたことに端を発するものです。

この当時、地上(日本の国土)を繁栄させ、日本国の主として君臨していたのが現在、出雲大社にて奉斎される大国主大神です。

天照大御神は配下の神々を遣わして大国主大神に交渉を持ちかけますが、数回、断られることになります。

しかし最終的に交渉は成功し、大国主大神から葦原の中つ国を譲り受けることになり、これを後世では「国譲り」と呼んでいます。

国譲りが行われた場所がこの屏風岩の前!

その国譲りの話し合いが行われたのが、稲佐の浜の屏風岩の前と云われ、最後に天界(高天原)から遣わされた神様こそが「建御雷之男神(たけみかずちのおのかみ)」です。

建御雷之男神は「天鳥船(あめのとりふね)」と言う船を用意して、伊耶佐(いさざ)の浜(現在の”稲佐の浜”)へ降り立ちます。

そして、自らの愛剣である「十拳剣(とつかのけん)」を荒々しく突き立てて、大国主大神とこの屏風岩の前で対峙して地上を譲るように交渉を試みるのです。

しかし大国主大神は、こう答えます。

「1つ返事はできない。そのためまず、息子神の”事代主神(ことしろのぬしのかみ)”」に聞いてくれ」

そして建御雷之男神は事代主神のもとへと行って交渉し、何とか了承を得ました。再び大国主大神のもとへ戻って了承を得たことを告げると・・大国主大神はこう告げます。

「すまないが、実は私にはもう1人息子神がいるから、その息子神の承諾ももらって欲しい」

仕方なく、建御雷之男神は大国主大神のもう1人の子神のもとへ行くことにしました。

そして息子神のもとへたどり着いた建御雷之男神は、国譲りの話をしますが・・なんと!その息子神は激怒して建御雷之男神に決闘を申し込んでくるのです。

「私に腕比べで勝てば国を譲ってやる」

そういって試合のゴングが鳴る前に、なんと!その息子神はいきなり!建御雷之男神の腕に掴みかかるのです。

ところがなんと!建御雷之男神の腕は氷のように冷たくなって、やがて氷の刃に変化します。

その様子を見た息子神は腰を抜かしてしまい、その隙に腕を掴まれて天高く投げ飛ばされてしまいます。

ちなみにこの大国主大神の息子神、名前を「建御名方神(たけみなかたのかみ)」と言います。

⬆️屏風岩の前に立つ看板の内容

建御雷之男神と建御名方神の戦いは相撲の起源だった?

力の差を思い知った建御名方神は大慌てで逃げますが、現在の長野県の諏訪湖の畔(ほとり)で捕まってしまい、負けを認めて国を譲ることに同意します。

以来、建御名方神は諏訪で鎮まる(暮らす)ことになりますが、後に建御名方神が暮らしたその場所には社が築かれることになり、現在では「諏訪大社(すわたいしゃ)」と呼ばれる神社になっています。

ちなみにこの諏訪大社は現在、全国に約25,000社ある諏訪神社の総本社と知られています。

建御名方神は負けはしたものの、現在でも戦神として篤く尊崇が寄せられており、この建御雷之男神と建御名方神の戦いこそが「本当の相撲の起源」だと云う説もあります。

なお、通説での相撲の起源は垂仁天皇の勅令で執り行われた「野見宿禰(のみのすくね)」と「当麻蹴速(たいまのけはや)」の力比べだと云われています。

その後の葦原の中つ国

その後の葦原の中つ国がどうなったのかはご存知の方も多いと思いまするが、葦原国を譲り受けた天照大御神は大国主大神に天をも貫くほど高い宮殿を与え、大国主大神には冥界の主宰神となって隠れたる神々を治めるように打診しています。

「隠れたる(幽れたる)神々」とは、すなわち目には見えないがこの日本に古くから鎮座する八百万の神々ことです。

それゆえ、大国主大神は毎年、旧暦10月10日に神々たちを出雲に参集させ、冥界の主として神議(かむばかり)と呼ばれる会議を開いているのです。

屏風岩の場所

稲佐の浜から少し北へ約5分ほど歩いた先にこの「屏風岩(びょうぶいわ)」が岩あります。

(稲佐の浜から50メートルほど内陸の山手。民宿・白砂の奥)

出雲大社から屏風岩への行き方)

銅鳥居から西門をくぐって神楽殿へ。神楽殿から観光センターいずもを通過し、国道431号線を海(稲佐の浜)へ向けて直進。
途中に見える大歳社(出雲大社末社)の奥に見える脇道へ入りさらに直進。突き当たりに見える下の宮(出雲大社摂社)を右折してさらにさらに直進。その先に見える三叉路の突き当たりが屏風岩。

  • 出雲大社から屏風岩までの徒歩での所要時間:約5分
  • 距離:約300m

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