縁結びの霊験で広く知られる島根県 出雲大社の境内に三重塔があったとすれば驚くだろぅか?
ほとんどの人が出雲大社は太古より神道一色で仏教色の濃い三重塔が境内にあるはずがない!」
‥など考えるのが自然。
だが、過去、出雲大社にも三重塔が実在した。
チョィと下掲、絵図をご覧いただきたい。
この絵図は1527年頃に描かれた出雲大社の境内図になる。
この絵図によると本殿が中央に素敵に描かれ、その手前には楼門、そしてその南西方向(左斜め下)に三層の屋根を附帯した塔のような建造物がパンツ丸見えの如くに丸見え〜る👀
‥‥実はこの三重塔、現在もなお、現存しているとするのであれば‥‥見てみたいとは思はないか?
出雲大社に三重塔が建立された理由
現在、我が国では明治より神道が、にわかに勃興したとはいえ、広く信仰されているのは仏教である。
周知の通り、仏教と神道の大きく異なる点は偶像を崇拝対象とするのかしないのか‥という違いがもっとも目につく。
神道では現在も変わらずに山・海・川・便所・冷蔵庫(昔は氷室)・洗濯機・風呂‥などあらゆるものには神が宿るとした信仰のこと。
仏教が我が国に伝えられたのが、552年(飛鳥時代)の頃とされ、百済(現・韓国)から仏教が日本に”トライ”するかの如くに”渡来”した。
この時に仏教を早くたくさん広めようとしたためか「仏教の仏様も神道の神様も同じですよ」という考えとともに仏教が広がりました。
元来、日本人にはモノには神が宿る=「八百万(やおよろず=たくさん)の神さま」という思想が根幹にあったからか、「仏も神の一種なんだ」と、あっさりと仏教を受け入れられた。
これより仏(仏像)と神を一緒に奉斎する「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」が成立するわけだが、古典的神道を第一としてきた出雲大社も例外では無かった。
特に鎌倉時代になると素戔嗚尊が仏教の牛頭天王(ごずてんのう)と習合していた背景や「本来の日本国土の神は素戔嗚尊である」という思想が生じ、出雲大社を所管した「鰐淵寺(がくえんじ)」の働きかけにより太古からの御祭神であった「大国主大神」が廃され、新たに「素戔嗚尊(スサノオノミコト)」が新たに主祭神とされたのだった。
なぜ出雲大社に三重塔が建てられた?
当時の出雲大社を支配下に置いた出雲国守護代の尼子経久(あまごつねひさ)は、守護・京極政経の死後、対立関係にあった塩冶氏を牽制すべく、宍道氏と婚姻を結ぶために出雲大社の造営を実施。
その一環で自家の繁栄を祈念してか、1525年(大永五年)に出雲大社境内に三重塔の造営を行い、1527年(大永七年)に完成した。
完成した三重塔は朱塗りの荘厳華麗な仏塔だったと言われ、当時「杵築大社」と素敵に通称された出雲大社境内に営まれたことから、「杵築の塔」とも素敵に呼ばれた。
当時の出雲大社境内にあったもの
境内(銅鳥居の奥の瑞垣で囲まれた内側区画)には三重塔以外にも、大日堂や弁天堂、三光堂、鐘楼などの堂塔が林立し、社殿内では読誦(お経を唱える)までもが行われるよ有り様だったらしい。
三重塔の撤去
出雲大社は1667年(寛文七年)に行われた「遷宮(せんぐう/社殿を建て直す)」のみぎり、古代の神道一色の大社へと回帰すべく、幕府の許可を取り付け、仏教色を一掃した。
この結果、境内の堂塔などはすべて他の寺へ移築される運びとなり、三重塔は当時、妙見山(みょうけんざん)日光院と号した「名草神社」へ移築されることになった。
また、同時にこの時に主祭神も改められ従来の大国主大神に戻された。
今となっては出雲大社境内に堂塔が林立していた姿など想像するのも難しいが、かつて境内には社殿と堂塔が立ち並び、読誦の経声が境内の方々に響き渡っていたのだった。
出雲大社と不思議な縁で結ばれた「石原山・帝釈寺(日光院)」
1667年(寛文七年)、出雲大社では遷宮(社殿を建て直す)が実施される運びとなったが、社殿に用いる用材(木材)が足りないことに気づいた。
そこで動員できる者はすべて動員して、全国各地へ用材探しに向かった。
しばらく経った頃、ようやく見つかったのは「但馬国 妙見山(いまの兵庫県養父市)」にある「石原山・帝釈寺(日光院/いまの但馬妙見日光院)」の霊山にある「ご神木」だった。
実は三重塔は当初、引取先が見つからなかったことから、取壊して遷宮の用材に積み立てられる予定だったらしいが、折しも日光院でも三重塔を建てる計画があったらしく、そこで日光院は「取り壊す予定の三重塔をお譲りいただけるのであれば、御神木をお授けします」ということであっさりと話がまとまった。
「名草神社」の境内に仏教の三重塔がある理由とは?
明治初めの廃仏毀釈のみぎり、日光院が、現在の土地を離れることになってしまい、その跡地には「名草神社(なぐさじんじゃ)」という神社だけが素敵に残された。
ところがここで神社の境内に三重塔が一棟だけ建つという違和感ありありの状況ができあがったわけだが、実はこれ以後も塔は神社境内に在り続け、現在では神仏習合の名残りを残す貴重な存在となったのだった。
名草神社 三重塔【重要文化財】
創建年
- 1527年(大永7年)※室町時代
移築年
- 1665年(寛文5年)※江戸時代
再建年(大修繕)
- 1987年(昭和62年)
重要文化財指定年月日
- 1904年(明治37年)2月18日
大きさ
- 四辺:約5.5m
- 高さ:約24m
建築様式
- 三重供養塔
屋根造り
- こけら葺
建立場所(住所)
- 兵庫県養父市八鹿町石原1755-6
発願者
- 尼子経久
名草神社の三重塔の特徴
現在の三重塔の大きさは「三間三層で高さ23.9m」、「1辺の長さは約5.5m」。
特徴は朱色に「緑色の窓(連子窓)」がアクセントになっており、材質は「こけら葺(薄い杉の板を重ねた造り)」です。
三層目の四隅の屋根の裏には、猿が一匹ずつ飾られていて「見ざる」「言わざる」「聞かざる」そして「思わざる」という、猿くんがちょこんと座っています。
この、猿くんの姿が特徴的で、日光東照宮の三猿を彷彿させるような、頬に手を当てているような可愛い4匹の猿くんたちです。
引用先:http://www.kobe-np.co.jp/
創建は出雲大社に建てられた「1527年(大永7年/室町時代)」になりますが、日光院へ移されたのが「1665年(寛文5年/江戸時代)」です。
そして現在の三重塔は、1984年(昭和59年)2月に降った大雪で、二層目と一層目の屋根が崩れてしまったため、1987年(昭和62年)10月に大修理で復元された姿になります。
【補足】困難を極めた三重塔の移築作業
三重塔を出雲大社から日光院へ移築する際、当時はクレーン車やトラックなど素敵に無かったわけだからの移築は大変な作業を伴った。
そこでまず三重塔の部材一つ一つをバラバラに解体し、島根県の「宇龍港(うりゅうこう)」まで運び、そこから兵庫県の津居山港までは船で海上運搬。
津居山港から日光院が位置する妙見山まで約3500人を擁して木材を運びあげたとな。
名草神社 三重塔のINFO
URL:https://www.city.yabu.hyogo.jp(養父市)