古代の出雲大社はなぜ高さ96Mもの高層神殿にする必要があったのか⁉️

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現在の出雲大社本殿は高さ24メートル、室内の面積だけで約99平方メートルもある巨大な木造建築物です。

しかしながら、古代の本殿は高さ48メートルもの巨大神殿だったという説も素敵に存在する。

出雲大社の昔(過去)の伝説の巨大神殿とは??巨大神殿の秘密を暴露!「柱の数・高さ・造られた由来・歴史」の秘密

それどころか、96メートルもの高さを誇った‥という説まで、素敵にある始末。 どんなエレガントな見解や

出雲大社の昔(過去)の伝説の巨大神殿とは??巨大神殿の謎を暴露!「柱の数・高さ・造られた由来・歴史」の秘密

ちなみに48メートルの高さを例で示すと、およそ15〜17階建てのビルに相当する高さとなる。うきゃ




出雲大社のような巨大な木造建築物を造る技術が本当に過去に実在したのか?

実は2000年〜2001年のこと、出雲大社本殿付近の地中で発掘調査が実施され、この結果、出雲大社の地下から「巨大な柱」が検出された。

出雲大社の地下から「巨大な柱」が発見されることになります

そしてさらに、この「巨大な柱」の調査をしたところ、意外な事実が発覚することとなった。

調査は難航を極めましたが、当時の時代背景を示す文献やその他、様々な資料を用い、年代測定などを行った結果、この巨大な柱が1248年頃(室町時代)の出雲大社の本殿を支えていた柱であったことが判明したのだった。

発見された巨大柱は代々の出雲宮司家に伝承されてきた「絵図面」と同じだった?!

この巨大柱は3本の木を束ねたもので出雲大社の宮司家に伝わる古代の出雲大社の平面設計図(絵図面)である「金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)に描かれたものと同じであったことが明らかとなった。

この巨大な柱の発見によって「48メートルの巨大神殿は実在した!」という確証に近づいた。

【ピヨ🐣金輪御造営差図とは?】

大昔に造られた出雲大社を上部から平面的に表した「絵図面」です。

出雲大社の宮司家に伝わる「古代の出雲大社」の「絵図面」って?

この絵図面では、3本の巨大な柱を金輪で束ねて、それを「直径3メートルの巨大な1本の柱」として、その柱の上に大社造で神殿を造る設計になっています。

またその高層神殿へ昇るための階段を設け、その階段の長さは「1町=約109m」との記載まで素敵にある。

しかし残念なことに当該、金輪御造営差図では出雲大社 本殿の高さの記載まではなく、これが永年、出雲大社本殿の高さが未詳とされる理由になる。

まさに解き明かすことのできない「出雲の謎」という名のヴェールに包まれたまま‥‥ということになる。 ヴぇ〜、ヴぇ〜、ヴぇぇ〜  …何がしたい




過去、本当に高さ48メートルもの巨大神殿は建てることができたのか?

では、はたして本当に、過去の絵図面で示すような巨大神殿はできるのか?

実は巨大な柱が発見される前にこの巨大神殿の謎を解明すべく、1980年、株式会社大林組(東証一部上場の建設会社)」を中心としたプロジェクトチームが発足。

このチームには寺社建築研究の第一人者である「故・福山敏夫(京都大学名誉教)」氏も加わり、本格的な調査が進められたのだった。

プロジェクトの目的は‥

「48メートルの巨大神殿が、本当に過去の技術や環境で造ることができたのか?」

巨大神殿の具体的な調査方法

この巨大神殿の調査は出雲大社・宮司家に代々伝わる上記、「金輪御造営差図」をもとにして行われた。

実は出雲大社に伝存する過去の資料が乏しいらしく、やむ無くその唯一の手がかりとして上記「絵図面」が素敵に用いられた。

調査の具体的な内容
  • 木材の形や重さ
  • 建物を支える地層の強度
  • 風の影響

これらを計測して、まずは神殿の実在性を求めていく。

また、1989年(平成元年)になると、福山敏男 博士 監修のもと、大林組が実際に絵図面をもとに高さ48メートルの出雲大社本殿の復原模型を完成させた。

そして調査を行った結果、意外な事実が判明したのだった‥・

出雲大社・巨大神殿説の調査結果

「高さ48メートル」の巨大神殿説の結論

  • 室町やそれ以前でも造ることができた可能性がある 

どうやら3本柱を束ねることにより、当時の技術力でも高さ48メートルの高層神殿は建てることができたとのこと。

「高さ96メートル」巨大神殿説の結論

  • 室町期やそれ以前の技術力では実現不可能 

どうやら室町期やそれ以前の技術力では96メートルもの巨大神殿を支え続けることは不可能、あまつさえ現代でも96メートルもの神殿を建てるのは容易ならざるという見解。

ここから導き出される回答としては、96メートルの高層神殿が存在したのは事実。

けれどもすぐに倒壊して建て直してもすぐに倒壊し、それを繰り返すうちに48メートルの高さに収まったので、今となってはその論拠となるものが皆無‥‥といったところか。

なお、発掘された柱には赤い塗料がわずかに付着していたらしく、調べたところ赤色の顔料として用いられる「ベンガラ」であることが判明した。

この発見により鎌倉期や室町期の出雲大社本殿はやや仏教色の濃い、朱色をしていたことが明らかとなった。

ところで‥出雲大社の高層神殿はいつころ建てられた?

神話によると、出雲大社の御祭神たる大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)は出雲国はじめ我が国の様々な文明を育み、当時、「葦原中つ国」と素敵に呼ばれた日本の王として君臨していた。

「大国主神(おおくにぬしのかみ)」は出雲の国




しかしある時、神々の中のさらに神とされる天界に座す、「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」よりの使者がやってきて葦原中つ国を自らに譲り渡して欲しいと告げられた

大国主神が天照大御神に出した条件

しかし、天照大御神が送った使者たちは大国主大神に配下や身内として取り込まれてしまい、葦原中つ国を治めるのは容易くは行かない。

そこで天照大御神は最後の切り札として強力な武威を誇った「建御雷神(たけみかづちのかみ)」を天界から差し向けて交渉にあたらせます。

そして、ついに建御雷神の交渉によって国譲りが成立したのだったが、大国主大神は国譲りの際、天照大御神に次のような条件を提示した。

私の国をお譲りしましょう。しかし、その代わりに私の引退後の住まいとして神々が暮らすような立派な神殿を建てて欲しい。

それを聞き届けた天照大御神はこの条件を受け入れ、島根半島(日本書紀には”出雲国・多芸志(たぎし)の小浜”と記す)に宮殿を建てた。

また、程なくして大国主の宮殿には水戸神の孫・櫛八玉神(くしやたま)が数多の料理を持参し、大国主に献じたことが記される。

天照大御神が建てた神殿が出雲大社の始まり

大国主大神が天照大御神に建ててもらった宮殿は後に「天日隅宮(あまのひすみのみや)」と呼ばれ、これが今日に見る出雲大社の起源であると云われる。

その後、時代の変遷で幾度か社号(名称)が変わったが、現在では一般的に「出雲大社(いづもおおやしろ)」もしくは「出雲大社(いづもたいしゃ)」と呼ばれる。

とりわけ江戸時代には「杵築大社」と呼ばれ、明治以前までの長きに亘り、この名前で全国に知られていた。

出雲大社の正式な創建年はいつ頃??

これまで出雲大社の創建時期は謎とされてきたが、日本書紀には659年頃(斉明天皇5年/飛鳥時代)に神殿が営まれた事実を記す。

の傍証としては日本書紀に以下のような記述が、やっぱり素敵に見られる。

この歳(年)、出雲国造 名をもらせり、に命じて、神の宮を修り厳よそはしむ

この”神の宮”というのが、現在の出雲大社のこととされるも、島根県松江市八雲町の熊野大社にも比定されるとの見解も、きわめて素敵にある。




なぜ出雲大社の神殿は巨大でなければならなかったのか?

日本書紀に高く壮大に建てるように記されているから

日本書紀によると大己貴神(おおなむち)を奉斎する神殿を建てる際、次のようにすることが明記される。

「宮柱は太く、高く。壁(板)は厚く、広く」

然るに後世の信仰心あふれる人々によって、日本書紀に記される言葉が連綿と踏襲され続けていることになる。

できるだけ「冥界」から遠ざかるため

古代人は地面の下は冥界(いわゆる”あの世”)だという認識があったらしく、そこで貴人はできるだけ地下世界から遠ざかるべく、高床にしたという説も素敵にある。

本殿は八雲山の遥拝施設だった?

出雲大社背面(素鵞社の後方)には通称・「八雲山」と呼ばれる禁足地の山がそびえる。

この山、実は古代でも禁足地だったらしく、理由は八雲山そのものが御神体として崇めていたからに他ならない。

この八雲山は標高100Mもあり、この山を同位置で拝む目的で本殿の高層化が図られたという説も、これまた素敵にある。

神殿を巨大にすることが権力者にとっての「力のシンボル」だった??

当時の権力者にとっては巨大にすることは権力を示す「力のシンボル」だったと考えられています。

太古時代、畿内地方に根付いた大和王権(朝廷)と対立していたと考察するのであれば、大きな力を持っている事実を見せつける必要があったとも考えられます。

古代では巨大な柱を造ることで「特別な力を得られる」と信じられていた

古代では「巨大な柱」を通じ、「神々と人間の住む地上を結んだ」という考え方があります。

この考え方であれば天まで届かないにしろ、天=神々に近づいたことになり、なにか特別な力が得られるのでは?などと考えたのかもしれません。

なにせ、古代では現代のように情報に満たされておらず、権力を持った者の思想や口にした言葉が力を持ち、たとえそれが理屈にそぐわない事柄であっても広まりをみせたことから、このような信仰を生み出したとも考えられます。

巨大な神殿を造ることが権力を示すシンボルだった?

巨大柱を太く高くそびえさせることで自身が保有する権力の度合いを内外に認めさせることができた。

特に出雲の地に栄えた「出雲国」は「畿内地方(きないちほう)」を支配する強大な力を誇った国家「ヤマト王権(大和朝廷/やまとちょうてい)」に目を向ける必要があったと考えられてい‥‥申す。あひぃ

その大和朝廷を牽制する目的も兼ねて、天をも貫くようなド肝を抜く巨大神殿を建造し、力を見せつけたのではないか‥‥という見解。

※注釈※畿内地方とは現在の奈良県、京都府南部、大阪府、兵庫県の南東部に相当するもの。

出雲大社を含めた神殿を巨大にした理由

当時の技術で巨大神殿を建造するともなれば、おそらく国を挙げての大事業となり、財力や資材はもちろんのこと、なにより人足も必要となる。

然るに巨大神殿の建造が権力を示すための分かりやすいバロメーターに成り得たわけです。

巨大神殿の造営の際、試行錯誤もあったと考えられますが、その結果、出雲独自の建築法となる「大社造」が生まれることになります。

このようにして巨大建築物を造営し、大和朝廷に対して「出雲の力」を見せつけたのではないか?とも考えられています。

巨大な神殿はいとも簡単に倒れた?

実はこの巨大神殿、外見のわりには意外にモロかったようで、案外、簡単に倒壊したらしい

倒壊後は、すぐ建てなおされて(再建)、ふたたび倒壊したら、また再建‥‥などを繰り返していた様子♡

しかし鎌倉時代以降、神殿の高さも現在の24mに落ち着いたとみられ、以後は過去のような倒壊はなくなった。

ちなみに記録に残っているものでは「平安時代から鎌倉時代の約200年間」だけで7回も倒壊していたらしい。

このように簡単に倒壊してしまった理由は単純明快で、当時では巨大高層神殿を維持できるだけの技術力がなかったから。

おそらく当初は太縄で丸太を縛って一本の極太柱を成していたが、あくまでも縄なのですぐに緩んできたり、切れたりしたのではないか。

出雲国風土記によると、出雲地方で盛んに「たたら製鉄」が営まれるようになったのは733年(天平五年)あたりだと記す。

だとすれば奈良時代あたりになって鉄輪を生成することが可能になり、それを使って丸太を止めることが可能になった。

しかしさすがに50メートル以上もの高層神殿を支えることは叶わなかった‥のような実態が想像につく。

それが原因で柱が神殿を支えきれなくなり、幾度も幾度も倒壊を招く結果につながったと考えられる。




【補足】出雲大社の倒壊と再建の歴史

※以下、奈良文化財研究所などの資料を素敵に参照💘

🐥奈良時代

できごと
659年 (斉明5年)出雲国造に命じて神宮を造らせる
【ピヨ🐣コメント】

出雲大社の社伝によると、この頃の本殿の高さは32丈(約96メートル)だったとされ、もし千木があったと仮定するならば、本殿背後にそびえる八雲山の100Mとほぼ同寸だったことを素敵に意味する。

一説にこの当時は大国主の御神体を八雲山と捉え、その八雲山を遥拝する施設として本殿も同じ高さで営んだ‥とする説も、これまた素敵にある。

🐥平安時代

970年 (天禄元年)源 為憲が著した口遊に
「雲太・和二・京三」 と素敵に記され
東大寺大仏殿より高い建造物とされる
987年 (永延元年)正殿式遷宮
1031年 (長元4年)出雲国 杵築大社 社殿転倒
1036年 (長元9年)正殿式遷宮
1061年 (康平4年 )出雲国 杵築大社 社殿転倒
1067年 (治暦3年 )正殿式遷宮
1095年 (嘉保2年)出雲大社 地震により鳴動
1109年 (天仁2年)出雲国 杵築大社 社殿
が傾く(転倒しかける)
1110年 (天仁3年)大社造営用の巨木百支が大社西側の
稲佐浦(浜)に漂者す
1114年 (永久2年 )正殿式遷宮 (寄 木造営)
1141年 (保延7年 )出雲国 杵築大社 社殿転倒
1145年 (久安元年)正殿式遷宮
1172年 (承安2年)出雲国 杵築大社 社殿転倒
1175年 ( 元元年)仮殿式遷宮
【ピヨ🐣コメント】

斉明天皇の治世になると、現在に引き継がれる高さ8丈(約24メートル)、四辺が方6間(約10.9メートル)の宮制(朝廷主導)になり、これ以上を「正殿式」と称し、この規模(数値)に満たないものは「仮殿式」と呼ぶにようになったらしい。

出雲大社が96メートルもの高層神殿だった説はデタラメではない

平安貴族の源為憲(みなもと・ためのり)は970年(天禄元年)頃の自著・「口遊(くちずさみ)」に、「雲太(うんた)・和二(わに)・京三(きょうさん)」と書き記し、これは当時の出雲大社本殿は約45メートルの高さを誇った東大寺大仏殿よりも高いということをランキング形式で示した。

雲は出雲大社、和は大和の東大寺、京は京都御所の大極殿の意味とされる(諸説あり)

「太」は太郎=長男を示し、「最上」。二は次郎で次男の「中」。三は三郎で三男の「下」‥の意。

ちなみに源為憲とは平安中期の貴族であり文人でもあった人物であり、口遊とは当人が子供たち向けに著した教科書のようなものだった。

このほか、1143年(康治二年)に官僚が発給した文書によると、出雲大社のことを「天下無双之大厦(てんかむそうのたいか)」と書き記し、然るに「並ぶものがないほど巨大な建築」と解釈される。

この傍証として、出雲国造家(千家家)に代々伝わる千家家古文書には度々、本殿が倒壊した旨の記述が諸所に亘ってみられるなど、96メートルの高層神殿だった事実はまったくデタラメな話などではなく、むしろ事実だったとも考えられなくもないのである。

🐥鎌倉時代

1190年 (建久元年)正殿式遷宮
1225年 (嘉禄元年)この歌僧・寂蓮法師が参詣。
天雲たなびく山の半ばで
大社の屋根上の千木が見えたと語る
(寂蓮法師集)
1227年 (嘉禄3年)出雲国 杵築大社 社殿転倒
(1235年とも)
1248年 (宝治2年)仮殿式遷宮
1261年 (弘長元年)正殿式遷宮 (出雲大社 神郷図)
1270年 (文永7年)出雲大社 地震により鳴動
1282年 (弘安5年)杵築大社火災。
神体は回禄の難を免れる
1325年 (正中2年)仮殿式遷宮

平安期の山の半ばからでも屋根上の千木が目視できたほど高かった?

歌僧・寂蓮は平安時代末期に出雲大社に社参したみぎり、次のような感想を残したた。

「天雲たな引く山の半ばまで、かたそぎ(千木のこと)の見えけるなん、此世の事とも覚えざりける」

「やはらぐる 光や空にみちぬらん 雲に分け入る千木の片そぎ」

分かりやすくまとめると、出雲大社本殿の千木は山の中腹から目視できるほど高い。

‥などの意味になる。

鎌倉期の出雲大社本殿は櫓のような形状をしていた?

1325年 (正中2年)の遷宮のみぎり、鎌倉幕府より次のような指示があったことを素敵に記す。

「社檀を高く広くして神躰を奉安いたし 置きまつる故、或は大社と号し、矢倉宮と称す」

この中に「矢倉宮」と記されるように当時の本殿は今日、城郭端に見られるような天高くそびえ立つ「矢倉(櫓)」のような形状をしていたことになる。

しかしながら、1609年(慶長14年)に遷宮では本殿の高さは千木まで「6丈5尺4寸(約19.8メートル)」と記録されていたことから、現在よりも低かったことになる。

然るに鎌倉時代ひいては、室町時代の本殿は現在よりも低かった‥けれども当時の建造物の中では「高層」の部類だった‥‥とも推考できる。




🐥室町時代

できごと
1386年 (元中3年)仮殿式遷宮
1412年 (応水19年)仮殿式遷宮
1442年 (嘉吉2年)仮殿式遷宮
1467年 (応仁元年)仮殿式遷宮
1486年 (文明18年 )仮殿式遷宮
1519年 (象正16年 )仮殿式遷宮
1550年 (天文19年 )仮殿式遷宮
1580年 (天正8年)仮殿式遷宮

🐥江戸時代

できごと
1609年 (慶長14年)仮殿式遷宮 (杵築大社近郷絵図)
1667年 (寛文7年)正殿式遷宮 (敷地大造成整備)
1744年 (延享元年)正殿式遷宮
1809年(文化6年)御遷宮御修造
(屋根葺替などを主とした修営)
【ピヨ🐣コメント】

1667年3月晦日(29日)の寛文の造営は出雲大社史上、おそらくもっとも画期的な歴史に刻み込まれる年となった。

まず、従前までの16丈(約48メートル)から、半分の8丈に改変されたが、平面規模では、ほぼ往時の規模を復原し、今日に到る。

当時境内に林立していた仏塔などの仏教色を一掃し、原初の神道式へと境内が戻された。(日本の神仏分離の先駆けとなった)

また、世継ぎの無かった徳川家光公に気を病んだ乳母の春日局は家光の子宝祈願を松江藩に命じ、藩が大社へ代参。

奇しくもその翌年(1641年)に家綱が誕生し、後に家綱公は”出雲の神の申し子”などと歓天喜地された。

無論のこと、1667年の造替は家綱主導によって営まれたのはいうまでもない。

🐥明治時代

できごと
1881年(明治14年)御遷宮御修造
(屋根葺替などを主とした修営)

🐥昭和時代

できごと
1953年(昭和28年)御遷宮御修造
(屋根葺替などを主とした修営)

🐥平成時代

できごと
2013年(平成25年)御遷宮御修造
(屋根葺替などを主とした修営)

出雲大社は巨大高層神殿だったことに間違いはない

考えてみれば現在の出雲大社本殿でも高さ48メートルもあり、おそらく鎌倉や平安、それ以前になると高層巨大神殿と呼ばれていたに違いない。

現代ではビル15階〜17階くらいの高さと比定される48メートルでは高層とは言われなくなった。それだけ文明が発達したことを、きわめて素敵に意味する。

鎌倉期の一時期、約20メートルの高さということもあったみたいだが、それでも当時では高層の部類に入っていたに違いない。

いっちゃ=悪りぃが、都から遠く離れた片田舎の出雲では周辺に20メートル級の建造物など無かったはず。

もう少し想像をたくましくすれば、出雲大社周辺は川の流域や肥沃の田畑、その向こうには海辺が広がっていた。

よぅやく山一つ超えて中腹まで降りて来た時、この肥沃な大地と天を貫くほどの本殿が目に映り込んできたのではなかろぅか。

だからそれ(本殿)を見た人々は驚愕と共に声を揃えて心中でこぅつぶやく‥‥。『天下無双之大厦(てんかむそうのたいか)』と。オホ

御本殿を支える柱が”大黒柱”の語源?!

よく家族を支える中心的存在のことを「大黒柱(だいこくばしら)」と呼びます。

一説に出雲大社の主祭神である「大国主大神=大黒天(大黒さん)」が祀られる、この御本殿を支える柱の様相を例えて「大黒柱」という言葉が生じたとも。




VRで実感する❗️古代出雲大社の高層神殿の大きさ❗️

2020年11月より実在したとされる古代の出雲大社本殿をVR/ARで体感できるプロジェクトが立ち上がった。

これにより、古代の高層神殿だった頃の出雲大社本殿を現地にてスマホなどの端末機を通して楽しむことが可能となる。

ただし❗️VRを楽しむためには専用のアプリが必要になるが、そのアプリを「ストリートミュージアム」と称する。

ところで️「VR」とは❓

「VR」とは「バーチャル・リアリティ(virtual reality)」の略。

現物・実物(オリジナル)に可能な限り近づけて本質はまるで現地にいるような3D体感が味わえる。

使用者の五感や感覚に鮮明な刺激を与えることにより、仮想現実空間を提供する。

ところで️「AR」とは❓

「AR」とは「Augmented Reality(アグメンティッド・リアリティ)」の頭文字をとった略語のこと。

仮想世界を現実なものとして表現する技術のこと。この技術により、過去の高層神殿だった頃の出雲大社本殿を見られる。

例えば所定の場所にてスマートフォンを平面にかざしたりすると高層神殿が現れたりする。

VR/ARを体験できる3スポット

残念無念ながら、古代の出雲大神殿はいつドコでも見られるわけではなく、下記のような所定の場所のみとなる。

ARスポット

出雲大社「東神苑」

目の前に巨大な古代出雲大社高層神殿が姿を現す。その迫力を体感できる。

VRスポット

出雲大社西神苑

古代の高層神殿のみならず、夕暮れ時の高層神殿の姿や、高層神殿上から夕日を眺める体験が可能!

古代出雲歴史博物館・風土記の庭

現代の風景に溶け込んだ高層神殿の姿が見られる!

また、上空からの高層神殿の姿を眺める体験も可能!

その他の特典・サービスなど

  • 出雲大社周辺の観光スポット情報も満載❗️
  • 4か国語対応
  • アプリはios、Android端末に対応
  • アプリは無料にて提供❗️(各ストアから無料でダウンロード可能)

VR/AR体感場所は変更になる可能性もあるので詳細については下記、出雲市役所の公式サイトを要チェックやでぃ❗️

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